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タクシーの男と犬



    土砂降りの雨になった。

どの位車を走らせたのだろう。
夢中で運転して来た麻由は自分に起きた悲しみと罪の深さに今更ながら慄いて絶望感でいっぱいになった気持ち抱えて真夜中の甲州街道を走らせ今もう少しで東京の外れにある奥多摩湖に着く少し手前迄来ていた。
目の前が見えない位の土砂降りに山を貫くトンネルに入ると疲れて思わず左に寄せて停車した。行く手に見えるトンネルの出口が幾分か明るく見える。
朝が明けて来たのかも知れない。
だが今の麻由にはそんな事はどうでも良い事だった。ハンドルを強く握って其処に顔を埋めて震えた。その胸の内に自分が起こしてしまった罪の深さと、裏切られた憎しみと其れが渦巻いている。もう生きる意味も希望も持ってはいない。そうやって暫くじっとしていると出口は僅かながら明るさが増している。無気力のまま発信してトンネルを抜けると雨で霞んで曇ってはいたが左に最大の人口湖の奥多摩湖が左手に、其の周りに緑の山々が連なっているのが目に飛び込んで来た。だが何の感動もない。麻由にとってここは人生を締めくくる場所でしかない。
土砂降りだった雨は朝が明けるのと同時に
弱い降り方となっていた。
奥多摩湖を望むその薄暗い敷地に入るとそんなに広くない駐車場が見えて来た。其処に車を停めて麻由は外に出た。明けたばかりのこの時間、まだ誰も居ない。歩く先には奥多摩湖を望む公園になっている。奥多摩湖に向かって麻由はどんどん歩いた。人が居ないのはこれから麻由がする事には都合が良い。其処に躊躇など無かった。奥多摩湖は霞がかかって遠くに水量を管理してるのだろう白い建て物がぼんやり見えている。覗いて下を見ると大きな湖に小さなさざ波がたっていて其れはあたかも自分を其処に引き込みたがってみえた。
麻由は目の前の柵に手をかけると其れを跨ごうと足を上げた。両手に力を込め体が湖に近づく。・ああ、これで、全て終わる・そう思い、更に身体を乗り出した。その時だ、フッと暖かな腕が麻由を後ろから抱き抱えた。一瞬の事だった。誰かが麻由を止めたのである。其の瞬間頭の中に首を絞めた勉のあの苦しそうな顔が浮かび強く湖に其れが尚も誘う。だからもがいた。其の時掴かんでいる其の腕に強く後ろに引かれ麻由は其の主と共に堕ちて倒れた。
起こされて其の手が麻由の頬を強く叩く。
涙で潤みながら夢中で叫んだ。顔は見えない。男性だとは分かる。「お願い!死なせて!死なせて!」其の男も叫んだ。「駄目だ!死んでどうする!君の罪が其れで消えるのか!」麻由はビクッとした。其の男の顔が見えた。初老のシワのある厳しそうで優しそうな顔立ち。其の男の目からも涙が溢れている。麻由はもう動く事が出来ない。其の男から感じる不思議な力に縛られた様で有った。男の眼が優しく麻由を見つめる。「雨で濡れてるじゃ無いが、車に戻ろう。僕の車に温かい珈琲も有るから。」麻由は言う事を聞かずに居られない状況になっていた。
抱えられて車を見ると雨に打たれながら停まっているベビーイエローの麻由の車の左に黒いタクシーが停まっている。麻由は其の車の助手席に座らされた。後部座席に茶色のロングコートのチワワが寝ている。タクシーに犬?乱れた麻由の脳裏にそう一瞬焼きついた。其れには知らん顔をして男はドアーを開けたまま麻由の前のダッシュボードを開け其処からタオルを出して其の男が麻由に渡した。「風邪ひくから良く吹いて。」とそう言うとドアを閉めて運転席に回り座った。そして黙ってコーヒーのポットを麻由に渡した。タオルを其の男に渡した。男も頭を吹いている。今なら飛び出せる、そう麻由は心で思っているが何かがそうさせない。黙ってポットの蓋を開けるとコーヒーを注いだ。湯気がたっている。男にポットを渡すと中蓋に自分の分も入れて飲んでいる。麻由も一口、口にした。
「美味しいか?温かいだろ?」麻由は黙ってうなづいた。もう死ぬ気が失せて居るのに気がついた。温かな涙が伝う。
「君のした事は時を経て必ず償う事が出来るんだよ。でも死んでしまったら人として其れも出来なくなるし、君だって浮かばれることなんて無いんだ。生きてればこそ償えるし、いつか君も輝ける時が来るんだから、もう馬鹿な事はするな。」男は麻由に諭しながら自分に話してる様に淡々と話した。不思議な感じがこの男からする。タクシーの運転手に化けた刑事だろうか。若しかしたら手錠をかけられるかも知れない。そう麻由は考えたが、其れなら其れでももういい。と、既に犯した罪を償う気持ちになっていた。「有りがとうございました。」と寸でのところを助けて貰ったお礼を言うと「何が有ったの?良かったらおじさんに話してみたいか?」と言う。少し落ち着いた麻由はタクシー会社の完成タクシーという名前とその運転手の名前の札を見た。後藤達也 と書いてある。
麻由はポツポツと話し出した。
其れは口に出すのも辛い事だったが後藤には何故か話さなければいけない、そんな気持ちなっていた。言葉は素直に出て来た。「後藤さん、で良いですか。?」
男は麻由の顔を見て優しそうにうなづいた。
・後藤さん、私、小川麻由と言います。
実は夕べ、同棲してた彼、彼の首を絞めてしまいました。・男は顔色も変えず聞いている。・
始めの頃は楽しかったんです。そのうち彼余り仕事しなくなって家に帰らなくなる事増えていきました。薄々感じては居たんです。他に女がいる事。私だけが働く様になってました。漸く貯めたお金も彼持ち出していく様になり、ある日私彼をつけました。・「刑事みたいだね。」と後藤は言った。
・ええ、そんな風に。そしたら彼、ためらわずにモーテルには入っていったの。・
「要するに女とだね。」・ええ、私車の中で待ちました。暫くしたら2人で出て来て車に乗ったの。驚きました。相手、私の妹だった。・
「ショックだったね。其れは。」・はい、もう何が何だか分からなくて、其れが昨日の事でした。もうつける気も無くて、私家に戻りました。そしたら遅くなって彼、平気で帰って来たんです。そして自分の荷物まとめ始めました。
私彼にお別れのお酒を勧めました。理由なんてどうでも良いの。さっき見た事で全て知ってましたから。彼はお酒弱くて直ぐ寝てしまうの分かってました。車運転するからと言っていたけど、一緒に暮らした2人の別れの時だからと
無理に進めて飲ましました。彼やはり寝てしまいました。最初は彼を行かせたくなかっただけたったんです。だけど、だけど寝顔見てたら私情無くなって、彼に怒りを感じて、気がついたら首を閉めてしまっていて・其処まで話すと涙が溢れ身体も震えて、もう何も話せなくなっていた。
今。この人に逮捕されると覚悟をしていた。
「そうか、きつい思いをしたのだね。麻由さんは。で、彼が死んだの確かめたの。?」と言う、「いいえ、もう夢中で家を出て来ました。」後藤は思いがけない事を言った。
「そしたらもしかして亡くなって無いかも知れないね。」「え、?」「だって麻由さんは細いし、死んだとは限らないでしょ?」「・」
「其れに、確かめてからでも良いじゃ無いか、自首するのも死ぬのもね。」麻由は後藤の言う事で、本当にそうだと気がついた。
「何処から来たの?」「木更津からです。」
「そうか、仕事は?」「黙って出て来ましたから。」「ん、まだ早いからね、電話して休むと連絡しておいた方が良いね。」素直にうなづいた。「そして辛いけど戻って確かめてみたら?」麻由はそうしようと思った。
「はい、戻ります。後藤さん。何処かで朝ご飯どうですか?」助けてくれたせめてものお礼がしたかった。「そうしたいんだけどね、客を拾って仕事しないと、会社からお目玉食うのでね。君も大丈夫そうだからここでね。」麻由は有難かった。今の時間、何故後藤か此処に居たのかもう其れはどうでも良い。神仏が引き合わせてくれたのかも知れない。と麻由は感謝した。「本当に、本当に、なんて言ってお礼を言ったら、後藤さん有りがとう。私、どんな事有ってももう大丈夫です。」後藤は嬉しそうに何回もうなづいた。麻由は握っていたポットの蓋を後藤に渡すと車から降りた。後藤に向かって深々とお辞儀をした。其の間、後藤は嬉しそうに微笑んでいた。自分の車に戻り、エンジンをかけてギアーを入れてふと後藤の車を見た。無い。既に其処に車が無いのである。発信する音は聞こえなかった。暫く啞然としていたが、気が付かないうちに車を出したのだろうと思い返して麻由はアクセルを踏んだ。
いつの間にか雨も止んでいた。
霞が消えて周りの山々が今まで降った雨にキラ今、火曜日の朝 6時半になろうとしていた。
夕べ出た時は心が乱れていて死ぬ事だけ必死に思い夢中で車を走らせた。今其の思いがポロっと落ちて人として取るべき道を選んでの帰り道、何と其の遠い事か。途中渋滞に巻き込まれたりガソリンを給油したり休憩を取ったりして昨日からの疲れも手伝い、木更津の街に入った時にはもう身体はどうしょうも無いくらいに疲れていた。奥多摩を出てから実に7時間も車を運転していたのである。
見慣れた我が家の近くまで来ると既に足も腰も背中も痛く無い所が無い位になっていたのだ。
この辺りは何事も起こって無い様だ。
マンションのエントランスを歩いている時、改めて部屋に入る恐怖が蘇って来た。でもこの街では何かあれば直ぐに大騒ぎになる。其れが殺人ともなれば尚更の事だ。だが何も変化は外にもこのマンションからも感じられ無い。いつもと同じだ。二階の自分の部屋のドアーの鍵を恐る恐る開ける。鍵はかかっていた。実は鍵をして出かけたかどうなのかはっきりとは覚えていなかったのだ。ドアーを開けて彼の無事を直ぐに知る事になった。足元に新聞受けから投げ入れたであろう勉の合鍵が玄関に落ちて居るのを見たからである。リビングに入ると夕べ飲んで散らかしたままになっていた。
テーブルに置かれた花瓶の花が少し萎れている。其の下に、勉が書き殴った置き手紙が有った。[目が覚めたら麻由が出かけていないから黙って出ていく。タンスの引き出しから2万円借りていく。今まで有りがとう。金はいつか返す。気持ちは分かるが痛かったぞ。]見慣れてはいたのだが下手な字で読むに大変だ。しかし彼が無事でいた事に麻由は心からホッとし感謝した。彼らしい。彼が使ったお金は今回のも含めて戻らないだろう。だが彼の少しの遠慮が見えた気がした。タンスには五万円入れて有ったのだ。今までの勉なら全額持って行っただろう。調べてみたがちゃんと3万円は残っていたのである。
この手紙の文面から麻由が真実を知ってしまった事に気付いていた様子が伺えた。
モーテルの前で待っていたのを見たのでは無かろうか。車の色が目立つベビーイエローだ。これで彼が戻らない事が確実になったという事だ。勉の残して行った合鍵をまじまじと見つめて涙が頬を伝う。
悲しいからなのか、安心したからの涙か麻由にもはっきりとは分からなかった。
ただ分かっている事は殺人をしなくて済んだという事である。後藤の、確かめてみれば、との言葉が蘇って来た。
・後藤さん、私、罪を犯さずに済みました。命を助けて貰って本当に有りがとう。何度も繰り返し心の中で言った。私が本当の幸せを掴んだ時絶対にお礼をしたい。硬くそう心に刻むので有った。
 其れから2年が過ぎた。
この秋麻由は会社の同僚と結婚する。
穏やかで優しい男である。決してイケメンではないが誠実な人柄である。麻由は26歳になっていた。勉と妹の仲は半年余りで駄目になったようだ。其の妹は来春他の男に嫁ぐ。
   日曜日の朝、麻由は後藤に連絡を取ろうと104番に電話番号を問い合わせた。
奥多摩辺りだと思いますが完成タクシーの電話番号をお願いします。」奥多摩ではタクシーの会社は何件も無く、簡単に番号は判明した。
直ぐにかけてみた。
「はい、完成タクシーです。」「あ、私木更津市の小川と言いますが、其方の運転手さんの後藤達也さんはお仕事中でしょうか?」「え、後藤ですか?」「はい、60歳少し前位の。」
「其の様な従業員は今居ないのですが。」
少し慌てた様な感じで答えが返って来た。
あれから2年が経過している。後藤はタクシーの運転手を辞めてしまったのであろうか。
「そうですか?もういらっしゃらないのですね。」「あ、はい。だいぶ前からですが。」
「忙しい所有りがとうございました。」仕方なく麻由は電話を切った。私に会って間も無く退社したのね。残念だけど仕方無い。
そう麻由は考えて其れからは後藤を探す事は諦めていたのである。
  其れからまた3年が経った。麻由は夫の半田雅夫と1人娘の真子8ヶ月と雅夫の転勤先の東京の武蔵野市の仲町に移り住んでいた。
変わらずに雅夫は優しく、真子は眼の中に入れても痛く無いほど可愛い。幸せな日々である。
  真子が産まれてから麻由は専業主婦となっていた。雅夫を送り出して真子と食事をし、掃除や洗濯が済むと大体10時頃になる。この日も
丁度10時に手が空いた。何気なしにテレビをつけるとニュースが流れている。
麻由はバナナを少し潰して真子の口に運んでいた。「真子、はい、あーんして。美味しい?」
と聞くと真子は嬉しそうにウンウンと言う。
もう一度スプーンに取って真子の口に入れようとした時「次のニュースですが、奥多摩のタクシー運転手の後藤さん当時58歳の失踪事件に8年振りに進展が有りました。」え、!っとテレビを見つめると其処にはあの奥多摩湖の想像を絶する画像に切り替わり、現地で、リポーターが説明をし出した。テロップに8年前に失踪したまま行方不明の後藤達也さんの使用していたタクシーが奥多摩湖から引き上げを開始。と出ていた。麻由は釘付けになった。リポーターの話しを聞くと、8年前に後藤達也は自殺をほのめかす手紙をタクシー会社社長に送りそのまま失踪していた。勿論警察に届け捜索をしたものの、飼っていた犬もタクシーも勿論本人も要として見つから無かった。其れが昨日湖の水位が下がりナンバープレートのような物が目視出来ると観光に来ていた老人が管理事務所に言って大騒ぎになったのである。ダイバーが潜って見て沈んでいる完成タクシーの発見となったのであった。
引き上げて中に果たして人がいるのか待たれるところだとリポーターは話している。麻由は息を飲み込んだ。其のタクシーを引き上げている現場は5年前、自ら飛びこもうとした、あの場所に違いなかったからである。テレビを息も出来ずに見ている麻由。真子がバナナを要求しても動けない。だが、また進展が有ったらお知らせしますと其のニュースは終えた。
まさか、あの後藤さんで有ろうか。タクシー会社の名も運転手の名もまさに麻由が助けて貰った後藤さんと同じだ。だけれどもタクシーごと消えたのは8年前と報道されていた。
麻由の身体は抑えても震えて止まらない。
何故、何故との思いが廻る。とうとう真子が泣き出した。我に返って其の口にバナナを運ぶ。
しかし気持ちは動揺していた。真実の報道が待たれる。しかし夕方になっても次の其のニュースは無い。気もそぞろなのだが主婦の仕事は休めない。夕食の支度をして雅夫が帰宅し食事をしてると7時のニュースが始まった。政治の事や渋谷で起きた不差別殺傷事件が先にされて
次のニュースだった。奥多摩湖から引き上げたタクシーから白骨化された人骨と小さな犬の白骨が出て来た、警察では後藤達也さんと愛犬のチワワ、と見て詳しく分析をすると報道されたので有る。夫と我が子の前で麻由はもう冷静ではいられなかった。顔が青ざめ涙も止まらない。雅夫はさっきから箸を止めて様子を見ていたが、「このタクシーの人骨、麻由が以前言っていた、助けてくれた人なのか?」と聞いてきた。雅夫に隠し事は嫌で有ったから全て話して有ったものだ。・そうかも知れないの、いえ、絶対にあの後藤さん・と力無く言うと後は何も言えなくなってしまった。元気な頃の後藤の顔写真が映った。心臓が止まるかとの思いだ。
間違いない、あの、あの日の後藤さん本人の顔が其処に有った。夫に向かって言った。「後藤さんが行方不明になったのは8年前。でも私が助けて貰ったのは5年前なの。」まだ震えている。夫は「3年間何処かに隠れていたとは考えづらいよなぁ。」其れはタクシーごと3年間も隠くれ通すなんて無理な話しである。其れならあの日の後藤さんは一体。麻由はフッと思い出した。
帰ろうと決めて車の操作をしてタクシーを見た時にはもう無かった。音もしなかった。そんな短い間に走り去って、其れを気づかないなんて
有り得ない。あのタクシーはもともと無かったのかも知れ無い、助けてくれるため後藤が見せた幻覚。でもだが抱えてくれたあの腕の温もりや、励ましてくれた声やあのコーヒーの温かさは現実の事としか思えない。麻由はもっと真相が知りたい。と、深くそう思った。
雅夫が真顔で話し始めた。
「後藤さんは仕事や色んな事で悩み自ら湖に沈んだのだろうな。そしてあの日麻由を助け無くてはならない衝動で出て来てくれたのだろう。
俺は麻由が感謝の気持ち忘れないでこれからも生きてくのが後藤さんの1番嬉しい事何だと思うよ。」「3年間も寝ていたのに出て来てくれたんだからね。不思議な事だけど。第一誰も本気にしないだろう。」
雅夫が言う事は全く其の通りなことだった。
死を選んで湖に沈んだ彼がその無意味を悟って、命を捨てようとしている麻由を救った。
真実をもっと追求するのは無意味な事だ。
自分に出来る事は後藤さんの意を汲んで、これからも幸せに生きていく事だろう。其れが後藤さんの供養になる。
不思議な事だが其れで良いのだろう。誰が信用しなくてもあの日の後藤さんは確かに私を助けてくれた。其の真実だけで充分な事だ。
今は暖かい感動が麻由を包んでいる。
真子が眠くなり騒ぎ始めた。この夜半田家に笑う声が絶えなく、外には星がキラキラと瞬いて、まるで後藤とあのチワワがニコニコしながら其の様子を見ているかの様で有った。
       完了


  タクシーの男と犬   その2
  
  夕べ出た時は心が乱れていて死ぬ事だけ必死に思い夢中で車を走らせた。今其の思いがポロっと落ちて人として取るべき道を選んでの帰り道、何と其の道の遠い事か。途中渋滞に巻き込まれたりガソリンを給油したり休憩を取ったりして昨日からの疲れも手伝い、木更津の街に入った頃にはもう身体はどうしょうも無いくらいに疲れていた。奥多摩を出てから実に7時間も車を運転して来たので、見慣れた我が家の近くまで来ると既に足も腰も背中も痛くて我慢の限界に来ていたのである。
だがこの辺りは何事も起こって無い様に麻由の眼には見えた。
マンションのエントランスを歩いている時、改めて部屋に入る恐怖が蘇って来た。でもこの街では何かあれば直ぐに大騒ぎになる。其れが殺人ともなれば尚更の事だ。だが何も変化は外にもこのマンションからも感じられ無い。いつもと同じだ。二階の自分の部屋のドアーの鍵を恐る恐る回した。鍵はかかっている。実は鍵をして出かけたかどうなのかはっきりとは覚えていなかったのだ。ドアーを開けて見ると果たして彼の無事を直ぐに知る事になった。足元に新聞受けから投げ入れたであろう勉の合鍵が玄関に落ちて居るのを見たからである。其れを拾ってリビングに入ると夕べ飲んで散らかしたままになっていた。
テーブルに置かれた花瓶の花が少し萎れている。其の下に、勉が書き殴った置き手紙が有った。[目が覚めたら麻由が出かけていないから黙って出ていく。タンスの引き出しから2万円借りていく。今まで有りがとう。金はいつか返す。気持ちは分かるが痛かったぞ。]見慣れてはいたのだが下手な字で読むに大変だ。しかし彼が無事でいた事に麻由は心からホッとし感謝した。彼らしい。この手紙の文面から麻由が真実を知ってしまった事に気付いていた様子が伺えた。モーテルの前で待っていたのを見たのでは無かろうか。車の色が目立つベビーイエローだ。これで彼が戻らない事が確実になったという事だ。今、勉の残して行った合鍵をまじまじと見つめて涙が頬を伝う。悲しいからなのか、安心したからの涙か麻由にもはっきりとは分からなかった。、使ったお金は今回のも含めて戻ることは決して無いだろう。だが、彼の少しの遠慮が見えた気がした。タンスには五万円入れて有ったのだ。今までの勉なら全額持って行っただろう。調べてみたがちゃんと3万円は残っていたのである。
ただ分かっている事は殺人をしなくて済んだという事である。後藤の、確かめてみれば、との言葉が蘇って来た。
・後藤さん、私、罪を犯さずに済みました。命を助けて貰って本当に有りがとう。戻って来て本当に良かったです。と、何度も繰り返し心の中で言った。私が本当の幸せを掴んだ時絶対にお礼をしたい。硬くそう心に刻むので有った。
 其れから瞬く間に2年の月日が過ぎた。
麻由はこの秋麻由は会社の同僚と結婚する。
穏やかで優しい半田雅夫と言う32歳になる男である。決してイケメンでは無いが誠実な人柄であった。麻由は26歳になっていた。勉と妹の仲は半年余りで駄目になったようだ。其の妹は来春他の男に嫁ぐ。
   ある日曜日の朝、麻由は意を決して後藤に連絡を取ろうと104番に電話番号を問い合わせた。
奥多摩辺りだと思いますが完成タクシーの電話番号をお願いします。」奥多摩ではタクシーの会社は何件も無く、簡単に番号は判明した。
直ぐにかけてみた。
「はい、完成タクシーです。」少しドキドキしている。「あ、私木更津市の小川と言いますが、其方の運転手さんの後藤達也さんはお仕事中でしょうか?」「え、後藤ですか?」「はい、60歳少し前位の。」
「其の様な従業員は今居ないのですが。」
少し慌てた様な感じで答えが返って来た。
あれから2年が経過している。後藤はタクシーの運転手を辞めてしまったのであろうか。
「そうですか?もういらっしゃらないのですね。」「あ、はい。だいぶ前からですが。」
「忙しい所有りがとうございました。」仕方なく麻由は電話を切った。私に会って間も無く退社したのね。残念だけど仕方無い。
そう麻由は考えて其れからは後藤を探す事は諦めていたのである。
  其れからまた3年が経った。麻由は夫の雅夫と1人娘の真子8ヶ月と雅夫の転勤先の東京の武蔵野市の仲町に移り住んでいた。
変わらずに雅夫は優しく、真子は眼の中に入れても痛く無いほど可愛い。幸せな日々である。
  真子が産まれてから麻由は専業主婦となっていた。雅夫を送り出して真子と食事をし、掃除や洗濯が済むと大体10時頃になる。この日も
丁度10時に手が空いた。何気なしにテレビをつけるとニュースが流れている。
麻由はバナナを少し潰して真子の口に運んでいた。「真子、はい、あーんして。美味しい?」
と聞くと真子は嬉しそうに手足をバタバタさせてウンウンと言う。
もう一度スプーンに取って真子の口に入れようとした時其れは聴こえて来た。「次のニュースですが、奥多摩のタクシー運転手の後藤雅也さん当時58歳の失踪事件に8年振りに進展が有りました。」え、!っとテレビに振り向くと其処にはあの奥多摩湖の想像を絶する画像に切り替わり、現地で、リポーターが説明をし出した。テロップに8年前に失踪したまま行方不明の後藤達也さんの使用していたタクシーが奥多摩湖から引き上げを開始。と出ていた。麻由は釘付けになった。リポーターの話しを聞くと、8年前に後藤達也は自殺をほのめかす手紙をタクシー会社社長に送りそのまま失踪していた。勿論警察に届け捜索をしたものの、飼っていた犬もタクシーも勿論本人も要として見つから無かった。其れが昨日湖の水位が下がりナンバープレートのような物が目視出来ると観光に来ていた老人が管理事務所に言って大騒ぎになったのである。ダイバーが潜って見て沈んでいる完成タクシーの発見となったのであった。
引き上げて中に果たして人がいるのか待たれるところだとリポーターは話している。麻由は息を飲み込んだ。其のタクシーを引き上げている現場は5年前、自ら飛びこもうとした、まさにあの場所に違いなかったからである。テレビを息も出来ずに見ている麻由。真子がバナナを要求しても動けない。だが、また進展が有ったらお知らせしますと其のニュースは終えた。
まさか、あの後藤さんで有ろうか。タクシー会社の名も運転手の名もまさに麻由が助けて貰った後藤さんと同じだ。だけれどもタクシーごと消えたのは8年前と報道されていた。
麻由の身体は抑えても震えて止まらない。
何故、何故との思いが廻る。とうとう真子が泣き出した。我に返って其の口にバナナを運ぶ。
しかし気持ちは動揺していた。次の報道が待たれる。しかし夕方になっても其のニュースは無い。気もそぞろなのだが主婦の仕事は休めない。夕食の支度をして雅夫が帰宅し食事をしてると7時のニュースを観てみた。政治の事や渋谷で先日起きた不差別殺傷事件が先にされて
次のニュースだった。奥多摩湖から引き上げたタクシーから白骨化された人骨と小さな犬の白骨が出て来た、警察では後藤達也さんと愛犬のチワワ、と見て詳しく分析をすると報道されたので有る。夫と我が子の前で麻由はもう冷静ではいられなかった。顔が青ざめ涙も止まらない。雅夫はさっきから箸を止めて様子を見ていたが、「このタクシーの人骨、麻由が以前言っていた、助けてくれた人なのか?」と聞いてきた。雅夫に隠し事は嫌で有ったから全て話して有ったものだ。・そうかも知れないの、いえ、絶対にあの後藤さん・と力無く言うと後は何も言えなくなってしまった。テレビに元気な頃の後藤の顔写真が映った。心臓が止まるかとの思いだ。
もう間違いない、あの、あの日の後藤さん本人の顔が其処に有った。夫に向かって言った。「後藤さんが行方不明になったのは8年前。でも私が助けて貰ったのは5年前なの。」まだ震えている。夫は「3年間何処かに隠れていたとは考えづらいよなぁ。」其れはタクシーごと3年間も隠くれ通すなんて無理な話しである。其れならあの日の後藤さんは一体。麻由はフッと思い出した。
帰ろうと決めて車の操作をしてタクシーを見た時にはもう無かった。音もしなかった。そんな短い間に走り去って、其れを気づかないなんて今考えれば
有り得ない事だった。あのタクシーはもともと無かったのかも知れ無い、助けてくれるため後藤が見せた幻覚。でも抱えてくれたあの腕の温もりや、励ましてくれた声やあのコーヒーの温かさは現実の事としか思えない。麻由はもっと真相が知りたい。と、そう思った。
雅夫が真顔で話し始めた。
「後藤さんは仕事や色んな事で悩み自ら湖に沈んだのだろうな。そしてあの日麻由を助け無くてはならない衝動で出て来てくれたのだろう。果たして本当の事を知る事必要な事だろうかな。俺は麻由が感謝の気持ち忘れないでこれからも生きてくのが後藤さんの1番嬉しい事何だと思うよ。」「3年間も寝ていたのに出て来てくれたんだからね。不思議な事だけど。第一誰も本気にしないだろう。」
雅夫が言う事は全く其の通りなことだった。
死を選んで湖に沈んだ彼がその無意味を悟って、命を捨てようとしている麻由を救った。
考えてみれば真実をもっと追求するのは本当に無意味な事だった。
自分に出来る事は後藤さんの意を汲んで、これからも幸せに生きていく事だろう。其れが後藤さんの供養になる。
不思議な経験だったけど其れで良いのだろう。誰が信用しなくてもあの日の後藤さんは確かに私を助けてくれたのだから。其の真実だけで充分な事だ。そう思うと
暖かい感動が麻由を包んで胸がいっぱいになった。
真子が眠くなり騒ぎ始めた。この夜半田家に楽しそうな笑い声が絶えなく、外には星がキラキラと瞬いて、まるで後藤とあのチワワがニコニコしながら其の様子を見ているかの様で有った。
       完了