短編小説1 ナンタルコトポン太

ナンタルコトポン太   

  桜が満開であった。公立の学校は春休みに入ったばかりである。入学式の頃には葉桜かも知れないなと邦夫は虚ろにそう思った。
 君島邦夫 三十一歳。中央線三鷹駅北口から関東バスの北浦行きを利用して武蔵野市役所に程近い大国総合病院迄通勤している。邦夫は大国綜合病院のレントゲン技師である。
バスが市民文化会館前の大きな交差点を大きく右にハンドルを切ると、息を呑むほどの美しい光景が眼に飛び込んで来た。幾年も其処に生きて来たであろう桜の樹がたわわに其の花を付け道路にアーチとなって其の道の奥まで広がっている。まるで自分に花が降り注いで来る様だ。行き過ぎてゆく桜を顔を上げてため息を吐いて見入る客が大半であった。
此処はこの辺りの桜の名所となっている。朝は混み合うこのバスに立って乗っている邦夫には見事な桜も其の瞳には色褪せて映っている。其れほど心に深い傷を負っていた。
 今年小学校に入学する筈の愛娘美咲は邦夫の妻浩代とともに突然自分の手を離れ家から消えてしまったのだ。ついこの間の事である。
邦夫にはとても信じ難い事で有ったから、中々其の事実を受け止められずにいたのである。


美咲の入学式に着る晴れ着やランドセル、文房具や学習机も既に購入してあった。その日帰宅してみると2人の姿が無くて美咲の部屋に探しに入ると其の学習机とベッドだけがポツンと残っていた。慌てた邦夫がリビングに急ぐとダイニングテーブルの上に無情に浩代が捺印した離婚届けと置き手紙が置かれていた。邦夫にとって其れはまさかと思う光景で有った。其の手紙には浩代の一方的な気持ちが書き連ねてあった。邦夫は其の手紙を眼を大きく見開いて読み進んだ。

 ・ 突然私達が出て行く事許して下さい。
邦夫さんとの結婚生活が嫌になりました。
美咲の入学を機に離婚したいと思います。
離婚届けを提出して貰えるかどうかは邦夫さんに任せます。当分の間私達の行き先は教えません。浩代 ・書いて有ったのは誠に自分勝手な内容で当然邦夫は其れを読んでる間冷静な気持ちではいられる筈も無く背中に寒気が襲っている。邦夫には浩代達二人に何も不自由をさせたつもりも、今まで手を挙げた事も無く、また浩代を本当に愛していたから、これは一体何故なんだ!と思うと身体がブルブルと震えていった。
暫くの間リビングの床に其の手紙を握りしめて
座って考えたが其の時の邦夫にはこんな仕打ちをされる覚えがまるで思い浮かばなかったのである。
暫くの時を経て家の中を見てみたら、美咲の預金通帳は無くなっていたが他の通帳も其の侭有って、浩代の貴金属と二人の衣類は全部無くなっている事が分かった。初めてその行為の陰に浩代の男の姿がうっすらと見えた様な気がした。其れは母娘だけで暮らすのには絶対に金銭が要る筈なのに当座の金だけで何も持ち出して居なかったからだ。
 浩代はかって大国総合病院で看護師をしていた。男好きのする美形の女で明るい性格で有ったから、レントゲン技師をしていた邦夫が時折患者をレントゲン室に連れてくる浩代に惚れるのは早かった。浩代もそんな邦夫に満更でもなかったのだろう。アタックして来る医師や看護師は多かったが其処から邦夫を選んだのである。
だからこの八年の歳月は邦夫は幸せで有った。
まして美咲が産まれてからは尚更で有った。
浩代もそうで有るのだろうと、今はそう思い込んでいた自分に腹が立って仕方が無い。
 邦夫は真面目一方で無口な男である。
ただひたすら働いて愛する家族を淡々と護って来た。美咲が可愛くてならない。妻が愛おしい。だが其の表現は誠に不器用で有ったから二人が消えて日が経ってやっと其れに気が付いて邦夫は心の底から後悔したのである。浩代にとってどれ程自分がつまらない男で有ったのかと思い知らされていたのである。邦夫は其れでも仕事を休まず何とか続けていた。そして二人を捜そうとはしなかった。何故なのだろうか。少しばかりの男の意地で有ったのか其れとも其の気力さえ失っていたのか。本当のところ邦夫自身其の意味を理解して無かったのだろう。だが辛い日々の中で美咲の入学にもう日が無い。考えて考えて邦夫は離婚届けに押印して昨日小平市役所に離婚届けを提出したのである。血を分けた我が子が書類上は他人となり浩代も他人に戻った瞬間であった。そんな邦夫にとって咲き誇る桜も色も、むせ来るその香りも褪せて見えて無気力に感じるのも至極当然の事なので有る。
 時は其れから瞬く間に二十五年も過ぎ去って行った。
また桜の季節が訪れた。今年も病院への道は桜のアーチで見事である。
あの日から二十五年と言う歳月が過ぎ去っても邦夫にとってその苦悩は褪せる事は無く、可愛い娘と浩代が突然消えたあの日のままであるから今年の桜も邦夫には虚ろに見えているのだ。
彼の歳も五十も半ばを過ぎてしまっていた。あれからの邦夫のその寂しさや苦しみが其の顔に深い皺を刻んでい、尚更無口になって、独りの生活も慣れたとは言え荒れていた。若い頃から飲めないタチなのにいつの間にか酒を覚えて寂しさから幼馴染みの前川勝男が営む居酒屋に毎晩のように職場から戻って小平駅の改札を南に出ると真っ直ぐに向かい、其処でブツブツ言いながら身体を丸めて呑んで食べて帰るのが常となっている。其の店の名は[勝ちゃん]である。
其の主人の勝ちゃんもまたこの二十五年の間変わりゆく邦夫の姿を見つめ続けた一人だ。
 浩代は邦夫が離婚届けを提出したのを知ると一旦住民票を杉並区に移している。其の時唯一邦夫は浩代に会おうと決意し捜査を其の機関に依頼した。だが既に杉並から更に住民票を移動して有り法的に隠されてい、其の後の足取りを追えないとの捜査結果を伝えられてからはもう探そうとはしなかった。これ以上は自分がとても惨めに思えたからだった。浩代の事は仕方が無いと思えば思えた。だが美咲は自分の子供である。親権の話し合いもぜず離婚に応じた自分を責めていた。責めて責めて責め抜いた。そしてこの年月の間子供の美咲に逢いたくて堪らない日々を過ごして来たのである。今はもう美咲も三十路を越えている。もしかしたら既に孫もいるのかも知れない。だが瞼に浮かぶのは幼い頃のおかっぱ頭の大きな瞳をしていて自分と同じ眼の下に小さなホクロが有り、あの日の朝出勤する邦夫に向けて笑った其の美咲の可愛らしい顔しかない。其れを思うと尚更寂しかった。あれから邦夫は再婚をする気持ちにも成らず独りを通して来たので有る。そんな風に殊更難しく暗い性格になっていた邦夫であるから仕事場に於いてももう随分長い間、仲間内で浮いている。懸命に働いて出世しようとの欲もとっくに失せて、そんな事はどうでもよくなっていたから、自分が生きる為に仕方なくレントゲンを撮り、終われば勝ちゃんの店で酒を呑み喰らう、そんな惰性の繰り返しの日々を送っていたのである。
 そんな風にすっかりうだつの上がらなくなってしまった邦夫はレントゲン技師の主任止まりで若い技師仲間からも当然のことながら疎まれていた。この日の昼間、患者を取り違えてレントゲンを撮ろうとした笠川技師を怒り付けた。「分かってんのか!笠川一つ間違えば訴訟にも成り兼ねなかったんだぞ!。」有ってはなら無い過失である。邦夫が気付か無いでいたらどんな事になるかも知れなかった。其れにこの男は若いのに子供も居て幸せな結婚生活を送っている。そんな事が邦夫の腹癒せになってかの事で有るのかは邦夫自身自覚は無かったが、一つの要因となっていたのだろう。
ところが若い笠川は其の邦夫の言葉に逆切れして「何だかんだと煩いですよ。主任だってぼっとして失敗ばかりじぁないですか!」と喰って掛かってきたのである。邦夫にプライドは少しばかりまだ残っていた。
反射的にブチ切れて笠川に殴りつけたのだ。幸い側にいた看護師に止められたけれども其の際に食わせたパンチは笠川の前歯を折る怪我を負せてしまった。邦夫は本来気が小さい。その笠川を見ると其の足で事務所に向かって歩き出した。其れは何処かで何かがストンと抜け落ちた様に無表情な顔をしていて、事の次第を見ていた技師仲間には邦夫の気持ちに何か変化が起きた様に映ったのだ。
訝る人事課長に「済みません、部下を殴ってしまいました。病院を辞めようと思います。」と静かに伝えたのである。課長は事の顛末を聞く迄も無く直ぐにレントゲン室からの報告を受けていた。分かっていて顔色も変えずに「あー、気持ちは分かるけど殴ってしまったのは駄目だな。ま、今日は早退して少し有休で休んだらどうかな?辞める辞め無いは其の後決めたらどうだろう?」と窘めて来た。本当のところ課長は厄介な事だと感じていたのに違い無い。其の気持ちを邦夫は手に取る様に感じていた。そんな事が有り、つくづく自分が嫌になってしまった。其れだから何時もより早く引けた事もあって勝ちゃんの店が開くのを待って夕方早くから殊の外荒れて呑んでいたのである。明らかにいつもと違う邦夫の様子であった。
女ばかり三人ではしゃぎ出した客が邦夫のカウンターの並びに座って居て、・何も起きなきゃ良いけどなぁ〜・と、勝っちゃんは胸騒ぎを覚えていた。居合わせた常連の客も同じ思いで有る様だ。忙しく店の中を動き回りながらちょいちょいと邦夫に眼を向けて勝っちゃんは気をつけていた。和室の客に刺身の皿を運んで少し眼を離している時だった。邦夫がムクッと立ちあがり隣の三人に向かって吠えた。
「ちょっと、昔のお嬢さん達、静かに出来ないのか〜!」あ、やっちまった!と勝っちゃんが反射的に振り向くと皆んなの視線も邦夫に向いている。
邦夫は自分のカウンターに乗っている酒の入ったコップやおでんの皿を其の右手で払った。
其の音は殊の外大きくて其の女性客の一人が悲鳴をあげた。其の声を聞いて因縁を付けた邦夫が少し我に返った様にビクッとした後、放心した様にそのまま店の外へフラフラと出て行き戸を後ろ手で勢い閉めた。「な、何なの〜、あの人〜!」と女性客の声が邦夫を追いかける様に聴こえて来ていたがふらつきながら駅の南口に向かって歩きだしたのだ。
「邦さん今日はいつもと違うねぇ〜。勝ちゃん。」初老の常連客が騒ぎが収まるのを待って言った。「前はあんなじぁ無かったよなぁー。」他の客も言い出した。女将が壊れ物の片付けをしている間に
「まぁま気を取り直して飲み直して下さいよ。」と、勝っちゃんは其々の客に酒を注ぎに廻った。邦夫は心の傷を抱えたまま長い間耐えて来たのだ。と思うと怒る気にもならない。ただ溜息が出た。ただ酒を振舞われた客に笑顔が戻ってまた店の中が賑やかになっていった。
 邦夫の眼の前に、遮断機が降りそうになりカンカンと音が鳴り出した踏切がぼんやり見えている。其の踏切の遮断機に軽くぶつかりながら邦夫は踏切に入って行った。誰も居ない。遮断機がすっかり降りて右手から新宿行きの上り電車が音を立てて近づいて来る。いや、死ぬ気などでは無い。邦夫は飲み過ぎて状況が良く分かって無かっただけなのだ。其の時、邦夫のズボンの裾が何者かに強く引っ張られて後ろ向きに転んだ。
其の瞬間邦夫の右足の指先をもう少しでかすりそうになり電車がもの凄い音を響かせて通って行く。ホームに止まる電車だからスピードダウンはしているが其れでも凄く速い。本当に寸での所であった。邦夫は我に帰って遮断機に向かって慌てて漸く這い出した。そのまま転がる様に踏切の外に出ると腰が抜けた様になって道路の端っこに座り込んでしまった。胸が大きく波打っている。暫く放心していた。今も誰も居なかった。星も良く見え無い空を仰いで大きく息を吐いた。何処からか桜の花びらが1枚舞っている。其の花びらがやけに白く眼に映る。暫くすると少し酔いが醒めた様だ。ずっと両手を後ろについていた。酔っ払いが立てずに居ると見たのか見知らぬ男が「おっさん大丈夫ぁ〜。」と言いながら踏切を渡って行った。其れで一息つけた。其の時手に生暖かい感触があるのに気がついた。其れは少し前からだったのかも知れ無い。振り向いてみると柴犬が尾を振りながらしきりに邦夫の手の指を舐めていたのである。
・こいつか、そうか、こいつのせいで助かったのか!・少し犬を撫で回し落ち着くと邦夫は抱いて立ち上がり家に帰ったのだった。其処に確かな生き物の重みと肌の温かみを感じながら。
 朝の陽がサッシの窓のカーテンの隙間から差し込んで邦夫は目が覚めた。頭が痛い。
・そうか、夕べは飲み過ぎたな・髪の毛を掻きながら玄関へ新聞を取りに部屋を出た。
クゥーンと声がしている。
・あれ?何だろ?・狭い廊下を出ると直ぐ玄関である。其処にはまだ若い柴犬が邦夫に顔を向け尾を振っていたのである。
「あ、お前は、そうか!あれは夢では無かったのか?」「良く助けてくれたなぁ〜ありがとな。」とその犬の顔を撫で回しながら何度もそう言いながらシミジミと眺めると、かなり体が汚れているのに気が付き「しかしお前汚れてるなぁ〜、首輪も汚れて、何処から来たんだ?」犬はキョトンと尾を振り続けて見ている。柴犬は横に広がった顔のタイプと狐の様な顔をしたタイプが有るのだが、この犬はタヌキに似ている。
「後で飼い主を探そうな?もしかしたら必死に探してるかもしれないからな。うーん、そうだ見つかるまではポン太で良いか?、不便だからね。」邦夫は珍しく犬に向かって雄弁で有った。
元々犬好きでは有ったのだが此れ迄飼った事は無い。先ずは散歩に行かなければなら無いのだが、ポン太を引くロープも無い。仕方が無いので、手ぬぐいを何本かに破いて其れを繋ぐと
手ぬぐい二本分でまぁ何とか丁度良い長さの紐となったから其れをヨッテ、ポン太の首輪に繋いでみた。
久しぶりに近所をゆっくり歩きまわり、
散歩の目的を終えて帰って来た。朝の清々しい空気を吸いながら歩いたものだからお腹が空いた。其れはポン太も一緒だろう。はて何を食べさせれば良いのだろう。とりわけ、自分の食べるものも冷蔵庫には無い。ポン太を繋いだらコンビニに行って来よう。と思いついた。
勝手口から奥へ入り狭い庭に出て見ると、雑草に覆われている。だが今朝はそんな事も新鮮に映る。取り敢えず洗濯干し場の下のコンクリートの上に古い毛布を敷き、二階のベランダを支えている柱にポン太を繋ぐと
案外大人しく其の毛布の上に座ったものだ。
ポン太にはドックフードを、自分はおにぎり二個とお茶を買って帰り、古いボウルにドックフードを入れ、丼に水を入れポン太の前に置くと、サッシ窓の敷居の所に邦夫も腰をかけ一緒に朝ごはんを食べた。小気味良くカリカリと音を立ててポン太の食べる姿を見てると一人では無い事が次第に嬉しくなって来て昨日の出来事で憤っていた気持ちも溶けていく様に思えた。ほんの少しだけ優しい気持ちが邦夫に蘇って来た様だ。後で風呂に入れてあげよう。今日は金曜日だから動物病院も空いてるだろう。健康診断をして貰おう。そうだ、ペットショップに行ってこいつの物も買おう。そんな事で邦夫の頭は今いっぱいになっている。風呂でシャンプーをして洗い流し、ドライヤーで乾かして見ると
少し硬くてピンと張ったポン太の身体の毛から
良い香りがしてとても可愛いい。たちの良い犬であるからもう外に出す気は無かった。さっきの毛布をリビングの隅に敷いてポン太はそのまま家の中に入れて置く事にした。家の中では引き綱は要らない。大人しくしている事は分かる。
何故か嬉しくて其のポン太に一枚の写真を見せながら話しをした。その写真は幼い美咲が写っている。おかっぱ頭でピンクの花柄のシャツを着てニコニコ笑っている。右眼の下にそばかすより大きくてそれより黒いホクロが有る。
ポン太は其れを見ながらクゥーンと一声上げた。「どうだ、可愛いだろ?美咲と言うんだよ。この子は俺の娘なんだ。」言われたポン太は邦夫の顔を頭をかしげて見ている。
「お前には分からないだろな、会いたいんだよこの娘に。」ポン太はワンッと吠えて其れはまるで邦夫に返事をした様で有った。
普段は通勤に車は使っては無く、暫くぶりに邦夫は軽自動車を動かした。助手席にポン太を乗せて、アカシア通りを南に走らせ動物病院を探したが無い。青梅街道を左にハンドルを切って新宿方面に走らせると、程なく刈谷動物病院と看板が見えて来て其の先にその病院が有った。青梅街道沿いにしては、小さな病院では有るが、専用の駐車場が一台分だけ幸いにして有ったので助かった。手ぬぐいの紐を引いて中に入ると誰も居なくて診察口が開いたままになっており、其の中からどうぞー、と間延びした声がしてきた。こんな物なのだろうか、と内心思いつつ中にポン太を連れて入って行った。
初老のメガネをかけた刈谷医師が私服のまま腰かけていた。「おー、可愛い柴ちゃんだねー。迷い子犬だね?」と獣医は言い当てた。紐を見て分かったのだろう。「はい、ずいぶん遠い所から来たみたいで、健康診断して貰いたいのですが、其れと飼い主を見つける方法が有ったら教えて貰いたいのですがー。」と聞いた。
そだねー。と言いながら刈谷は診察台にポン太を乗せるとお腹をさすったり、口を大きく開けて中を覗いたり、暫く足や尻を見たりしていたが、
ニコニコと邦夫に向いて言った。
「大丈夫だね。健康そのものだ。ま、暫く外で食べ物を拾い喰いしたと考えられるから少し虫下しを出して置こう。」「そうですか。」と邦夫は小さな声で返事をした。「この子の写真を持って無いかな?」と刈谷は言う。鑑札が付いていれば飼い主を探すのは簡単らしい。だが、鑑札はポン太には付いてはい無い。後があるので取れてしまったものらしい。写真は元より無かった。刈谷は自分の携帯でポン太の写メを撮った。「この子は何処に居たのかね。?」と聞く。「はい、夕べ10時過ぎ頃に小平駅の北口側の踏み切りの辺りに居ました。」刈谷はうなづきながら携帯を操作している。何をしているのだろうか?
「あ、今取り敢えずTwitterにアップして拡散して貰うからね。あと、此処にも外にチラシを貼って置くからね。飼い主見つかるとよいね。ー。」と言ってポン太の頭を撫でている。スマホでそんな事が出来るのか、と感心していると。
住所と電話番号書いて帰ってね。と言われて幾分安心した。診察料を払い、虫下しの薬を受け取って其の足でベットショップを探しに車を走らせた。「健康だってさ、ポン太良かっね。でも診察料あんなに安いものなのかなぁ?ポン太、」ポン太はもう丸くなって寝ている。
迷い犬だから良心的な診察料しか取らなかったのを邦夫は知らなかった。獣医は様々なのである。ポン太はこの辺りで一番人気のある獣医の所で診て貰ったのだ。昭和大付属病院の側に大きなホームセンターが有って其処にベットショップがある。ペットも店に入る事が出来る。一応新しい首輪と引き綱を女の子らしいピンクで揃えて餌も買い足し、同様に可愛いい模様の餌の器、水の器とおしっこシートを買い、スーパーによって家に帰ったのはお昼もとうに過ぎた午後2時頃である。家の中が明るくなった気がする。あの事で月曜日まで有休を取って有るから其の間に飼い主が見つかるといいなと思うのだが反面見つからなくても良い様な気もしている。ポン太はお風呂に入り、医者に行き、ベットショップにもスーパーにも行って流石に疲れたのだろう、毛布の上でグッスリ寝てしまっている。
この家の中で自分以外の息遣いを聞いたのは実に25年振りの事だ。
電話が鳴っている。面倒だなぁと思いながらも受話器を取った。勝っちゃんの声が聴こえて来た。「おう〜大丈夫だったかぁ〜。夕べ荒れてだから、何かあったのか?」幼友達を心配して電話をして来たのだ。嬉しくて申し訳無く暫く何も応える事が出来なかった。
「話聞くからまた来いや。どうせ今夜また来るだろ?」勝っちゃんは優しかった。
「ありがとな、今夜は無理だけど近い内に行くよ。」やっとそう答えると「おう来いや〜、さ、じゃあ仕込みしてるからまたな。」と勝っちゃんは電話を切った。友達は有難いなぁ〜と思いながら邦夫も隣の部屋のベットに横になった。天井板の節目をジッと見つめているうち、目頭が熱くなり涙がツウーッと伝わって落ちた。邦夫にも分からない涙の訳ではあった。
 埼玉県の新座市、今はベッドタウンとして宅地が開発されて、東京の郊外と同じような一軒建ての住宅が立ち並んでいる。
まだ畑や緑も東京のそれよりは多いのだった。
早川美咲の住んでいる所は其の立ち並んだ住宅地の中にある。建て売り住宅であるので狭い庭とガレージの直ぐそばが隣の家の外壁となっている。東京都下の狭い土地を有効活用して建てる建て売り住宅の条件と大して変わらない。
 早川美咲31歳。6歳の息子拓也と穏やかな夫圭之助の3人家族である。
 真新しいこの家の子供部屋には、購入されたばかりの勉強机とランドセル、そしてクローゼットの中には拓也の式服が吊るされている。
明後日が入学式であり、其の準備は整っていた。拓也は美咲に似たらしく、右目の下に小さなホクロがある。この拓也を中心に美咲は幸せな暮らしをしていた。ひとつ散歩中にはぐれた犬が帰って来ないのを覗けば。犬の種類は柴犬、雌で一歳半。名前をポン太と言う。タヌキに似ている顔立ちだから美咲が速攻で付けた名前である。雌犬であるので男の子の様な名前だが家族に異存は無かった。利口な犬であった。はぐれて10日を経ていた。勿論とても心配して保健所や、市役所、近所のペットボランティアなどには捜索の嘆願は済んでいたし、圭之助の休みには近所を必死に探し回っていた。ポン太はかけがえの無い家族であったのだ。
 だがもう、探しあぐねていた。
もう帰っては来ないのでは無いか、誰かが連れて行ってしまったのでは無いか、半ば諦めにも似た心境に陥っていたのである。
美咲には他人に容易には言えない過去が有る。
幼い頃浩代に連れられて小平の家を出た。タクシーを降りると美咲の知らない男が待っていた。怖かった。
何故なのか理由が分からずに其の男のアパートに暮らす様になって家に帰りたくて毎日ぐずっていたようだ。パパに会いたい。其の辛い気持ちだけ覚えている。直ぐに杉並の第四小学校に入学して幼いながらももう家には帰れないのを悟って其れからは浩代に従うしか無くなったのである。浩代から邦夫の事は忘れろと言われ続けて二年の月日が過ぎた頃突然浩代が其のアパートから消えた。親では無い男の元に残されて美咲は途方に暮れたのだが其の男は美咲を可愛がって高校を卒業するまで養ってくれたのである。法律上では養父の片桐雅夫である。
気の良い男であった。自分を踏み台にして消えた妻の連れ子を自分の子の様に育てたのだから
美咲も実の両親が自分の周りから消えてしまっていても幸せに成長する事が出来たのである。
だから其の家を嫁ぐ為に出てからも雅夫は父であり、ジジなのである。其れでも実の父親は恋しかった。かすかに其の顔の眉間の辺りと自分と同じところにホクロが有るのを覚えているが、出てきた家の詳しい住所や其の風景も遠く霞んで探す事も出来ずに今日まで来たのである。浩代は新しい男に走ったまま行方知れずになってたが、雅夫も美咲も探そうとは思わないできたのだ。だから戸籍上は浩代は片桐の妻のままになっている。美咲はこの事を親友に聞いて貰おうと考えていた。今まで溜めていた思いを誰かに聞いて貰えれば気が軽くなる。ちょうど今日辺り其の親友の洋子が来る筈であった。
昼のご飯を終えて其の片付けに立ち回っていた。玄関に「こんにちは〜。」と聞き慣れた声。親友の中村洋子である。拓也と同い年ので女の子がいて其の2歳上に男の子がいる。下の子の恵子は拓也と先日同じ幼稚園を卒園したのである。「上がってーー。」と美咲は玄関に出ずに声をかけた。洋子の訪問はとても嬉しい事で有った。
子供達が幼稚園を卒園して入学式までの間にその事を話そうと思っていた。
 洋子は拓也にお下がりの靴を持って来た。
「あら、ご飯だったの?」と様子を見て洋子は聞いた。「遅いご飯でー、片付けてたところなのよ。」洋子は其の靴は同じ古だがサイズが合うのでくれるのだ。
洋子は歳も美咲より8才年上で、親友を超えて姉みたいに思っているところが有って、何でも相談出来る唯一身近な存在の人だ。また人柄も良く人の悪口など口にしたのを、この三年間美咲は聞いた事は無かった。
「はい、お約束の拓也ちゃんの靴。」と言って紙袋を渡された。美咲は受け取りながら「わぁー、有難う、拓也履いてみる?」と拓也に促したが、もう友達と遊ぶのに夢中で子供部屋にはしゃぎながら消えてしまった。一緒の学校に入学する。「後で良いじゃ無い、それよりね。」と洋子は携帯をバックから出して来た。其れを開いて操作している。
何をしてるのだろ?「Twitterにね、これが出ていると、主人が教えてくれて見てみたのだけど、これ、ポン太ちゃんの事じゃないかな?」
美咲はTwitterはしていなかった。覗いてみると、「迷い子犬ポン太「仮名」保護。拡散希望。」と書いて有り、其の犬の写真が貼って有る。タヌキの様な顔立ち、大きさ、確かに似ている。ドキドキしてきた。でも何故ポン太と言う名前を付けたのだろう。
そして刈谷動物病院の連絡先が明記されている。小平市仲町、小平、そんなに遠いところ?え、小平?パパがいる街だ!そう思った。
「これ、当たってみる価値ありジァ無いかな。?」洋子の声にうなづく美咲。気持ちは動揺している。期待が高まる。渦巻く疑問も有る。「このアカントにDMしてみる?」と聞いてきた。何のことだか分からなかった。「あ、この載せた人に直接にトーク出来るの、ラインと同じよ。」美咲は納得した。でも電話の方が早く聞く事が出来る。美咲は連絡先をメモして家電からダイヤルした。洋子は其れを見守っている。
呼び出し音がしている。長く感じて息が詰まる。唾を飲み込んだ時、「はい、刈谷動物病院ですー。」と間延びした声で応答してきた。
「あ、お忙しいところ済みません。私、新座に住んでいる早川と申します。」「あのう、Twitterを見てお電話してます。」「あ、そうですか、どの子かな?2、3載せたので。」「ポン太と言う、柴犬です。」「あ、迷い子犬のポン太ちゃんですね。」刈谷はあくまで優しい対応だ。
だが今は急患を対応していてると言う事で、美咲の電話番号を聞いて来た。手が空いたら連絡をくれる。仕方なく美咲は電話を切った。
「あ、そうなのね、気がもめるけど仕方ないわね。」と洋子は美咲を宥めた。美咲は浮かぬ顔をしている。「どうしたの?希望が出て来たじぁ無い。待とう?」と更に促した。
美咲は胸の内にある事を洋子に今話す気になっていた。まず、どうして仮の名がポン太なのか。そして保護しているのが小平市に住む人らしい事。?
その小平市には特別な思い入れがある事を話した。そして先程の事を全部話し終えた。洋子は冷静だった。小平市に住んでいたのだけども、幼い記憶は曖昧で所番地もはっきりとは覚えて無くて、
捜す事も祥代から止められていた事。などを実に休み無く続けて話した。「そうなのね。気持ち分かる。もし、これが美咲さんのポン太なら小平まで引き取りにいくのでしょ?」「そうなるね。」
「複雑よね。お父さんが居るかも知れない所に踏み込むのって。確かにポン太と言う名も偶然にしても不思議よね。」と言う。
「取り敢えず、刈谷さんからの連絡待ちよ。」と洋子は言う。
その通り、なんだかんだと思っていても仕方ない。洋子と話しながら美咲は遠い昔を思い出していた。背の高いお父さん。無口だけど可愛いがってくれていた事。うっすらと眉毛と目を覚えている。そして祥代が・くにおさん・と他人ぎょうぎにパパを呼んでいた事。急に家を出て来た時の強烈だった、ドアーの閉まる音などを。其れから暫く洋子とのお茶会になった。携帯で時間を確かめると4時である。
刈谷からの電話がまだ無い。「あ、お茶入れ替えるね。また紅茶でいいかしら」と言い切らない時、家電がなった。ドキドキして出てみると刈谷からである。胸がつまる。
そして刈谷はポン太は元気だという事。保護主は小平駅前近くに住まいする君島さんと言う男性だと言う。其の瞬間心臓が止まる気がした。美咲の幼い時の苗字に違いなかった。刈谷医師も下の名は知らないらしく、引き取りに来るなら案内をしてくれると言う。後で連絡する事になった。其れどころではなかった。美咲の胸は爆発するのでは無いかと思う程大きく打っている。パパと同じ名字、小平!そうじゃぁ無いかと思うともう我慢ができない。まだ確かな事は分からないがもしかしたら、もしかしたらとの思いが頭を、占領している。
美咲は振り向いて洋子を見詰めて堪らず泣き出した。
「どうしたのー。?」と心配する。
・保護してくれたのパパかも知れない!
私のパパかもー。・泣き崩れる美咲に洋子も驚きを隠せなかった。
「え、そんな事ってぇー!・・でも頑張って、行くしか無いわよ!」と美咲の背中を撫でた。テーブルに顔を伏せて泣きながら何度も何度も美咲はうなづいている。
 もしかしたらポン太の飼い主かも知れない人から連絡が有り、明日午前中に家に連れて行くと刈谷獣医から連絡が入ったのは日曜日の夜8時を少し過ぎた頃で有った。その人は埼玉の新座市から子供を連れて来る早川と言う女性だと言う。邦夫はTwitterの力は凄いと思いはしたが、少し残念な気持ちがしていた。本当に飼い主なら明日の午後にはポン太は渡して居なくなる。も少し後でも良かったのに。リビングの毛布の上にチョコンと座り自分を見ている可愛いポン太と別れなければならない。いや、ポン太にとって其れが幸せの事、当然諦めなくてはいけないだろう。思いは行きつ戻りつした。複雑な心境である。
ふと思った。新座市から?何故こんな遠い所に子ども連れで来るのだろ?預ける人がいないのだろうか?、其れともまだ乳幼児なのだろうか。
あ、あ、何てくだらない事を考えてるんだ俺は。思い返してソファに座り直すと、ポン太が隣に座って、邦夫の膝に顎を乗せて上目遣いで見ている。何かを感じているのだろうか。ポン太は利口な犬であるのは身に染みて分かっている事だ。何しろ俺を助けてくれたんだから・頭を撫でながらしみじみそう思った。
「ポン太、明日お別れかも知れないから、もう一度言っておくよ。助けてくれて有難うな。」
ポン太との二日間は邦夫に確かに変化を与えていた。まず酒をあれからは飲んで無かった。そしてその辺に咲いてる草花にも目を向ける、そんな風に気持ちの余裕が出で来ていた。そして最大の気持ちの変化は永年勤めた大国病院を本当に辞める決心をした事で有った。邦夫は56歳、定年まで病院にいるより何か新しい事をしたくなった。俺は変わらなくてはいけない。其れには今しかないと思ったのである。
其れを勝っちゃんに話したら、其の新しい事が決まるまで店を手伝ってくれると有り難い。と言ってくれたものだ。月曜日には取り敢えず大国病院に連絡するつもりで居たのである。
愛おしくなったポン太とこの夜はベットで一緒に休んだ。ポン太も嫌がる事も無く、邦夫の側で寝息を立て安心している様にねたのである。
一夜が明けた。散歩をして食事が終わり軽く掃除を済ませるともう9時を回っている。
思い立ってお茶を買いにコンビニにポン太を連れて行った。取り敢えずジュースも混ぜて5本もベットボトルを買って、ゆっくりと家までのなだらかな坂を下りてゆくと家の前に軽のバンとブルーの自家用車が停まっている。其の自家用車の後ろのドアーが開いてそこから男の子が出て来た。ポン太はいきなり駆け出した。思わず引き綱を離してしまった。・ポン太!邦夫が呼ぶのとその子が呼ぶタイミングが一緒だった。振り切るほど尾を振りながらポン太はその子に飛び込んで行った。其の瞬間。助手席からその子の母親が出で来た。運転席から優しそうなさの高い男が降りた。刈谷医師はバンから降りて成り行きを見守っている。
其の母親はまっすぐに邦夫を見ている。近づいて見ると其の子どもの右眼の下のホクロが見えた。邦夫を見据える母親の右眼の下にも同じホクロが有る。同時に美咲は邦夫の眉と目を見ながらその眼から涙が溢れ出でいる。全てを邦夫も美咲も確認し納得したのだった。刈谷医師も其の状況を唖然として眺めて居たが、車に戻るとニヤニヤと笑いながら其の四人を置き去りにして車を発進して行った。
拓也と圭之助はポン太と遊んでいる。
其れを見て「僕の孫か?」邦夫が言ったものだから
美咲はただ邦夫の手を取ってうなづいた。
反対側の手にはお茶の袋を握っている。
其の袋が小刻みにカサカサ揺れている。
圭之助は遊びながら二人を見て泣いている
そして邦夫と美咲の2涙は長い間止まらなかった・

翌日、新座市の第二小学校の入学式に邦夫の笑顔があった。ポン太が繋いだ親子の縁。
25年前我が子の入学式には参加が叶わなかった
。だがこの晴れの日に隣にその娘美咲と圭之助が一緒に居て、今可愛らしい拓也の入学式に出席している。感慨無量である。 邦夫の周りに穏やかで優しい空気が泳いでいた。
何故ポン太が自分の所へ来て助けてくれたのか。まして其のポン太がどうして二十五年求めて止まなかった娘の美咲の犬で名前がポン太だったのか。考えても其の理由は分からなかった。ポン太、お前は本当にナンタルコトポン太だなぁ〜。邦夫はこの不思議な縁に大きな息をはきながら感謝していた。
 かくして 校庭の桜は美しい色を讃え寿ぐ様に実に満開であった。

         ナンタルコト ポン太 完

後書き
Blogを整理し新たに投稿したものです。ですから読んで頂いた方もいらっしゃると思います。
 本当に未熟で拙いこの物語を読んで頂いた方に心より御礼申し上げます。
 私はある劇画家に若い時押しかけ弟子入りをして劇画を教えて頂いた。
だが其の道を歩く事は叶わずに今日に至っている。
絵は相変わらず好きで劇画では無いが今はイラストを描いて楽しんでいる。
師は絵と同時に話の構成や吹き出し台詞の使い方も教えて下さった。
其れが作文をする楽しみに繋がっていった。
この話は一番目の話しである。

話の構成も文章もまた私の持つ言葉の数の少なさに実感している次第です。また他のお話で投稿したいと思っております。有難う御座いました。 完