通りゆく時雲の流れに



  人間は過ちを犯す。其れは何時の世も同じである。過ちを犯しながら片方で善を施している。

罪を犯していると言う自覚に立った時自分を恥じ其れを補おうとする意識が芽生える。また、
逃避するか何れかなので有る。
罪は其の度合いに寄り、其の比重によって許される者と裁かれる者とに分かれるだけの事で、運良く許された者でも日常に於いて人間は知らず知らずの間に人を傷付け、奈落の底に追いやっているのが現実だ。大概の場合は其れと気がつく事も無く、平然と世の中を闊歩しているのが現状なのでは有るまいか。時と場合によっては、其の方が罪が重いと言う現実を知らなければならない。何らかの罪を背負う、其れが人間に於ける宿命なのかも知れない。
  これは罪と言う言葉に翻弄され人生の大きな時を失った1人の女の話である。
  泉川貞子は息を潜めるように下町の小さなマンションにひっそりと暮らしていた。
目立たぬ様に暗めの服を身に付け、化粧は口紅だけ、おかっぱに近いボブにして近くのスーパーの精肉部門で1日中肉を捌いて生計を立てている。39歳。若い時の華々しい世界にいた貞子からは想像もつかないその姿である。
かってはその歌唱力で人気を博したスターであった。
当時、ステージやテレビに出る時も移動の時も厚い化粧で有り、付き人さえもその素顔を見た事が無かった位だから素顔でいたら其の片鱗も無く、童顔の貞子のその前身を見破る者は皆無で有った。
だが、其の正体が分からない様に来る日も来る日も気をつけて、貞子に取っては胃の痛む様な日々が既に7年もの間続いていたのである。
  貞子が其の歌唱力で脚光を浴び、芸能界に
デビューしたのは遅咲きの20歳の半ばを過ぎた頃で有った。個性のある魅力的な声で歌うバラードは聞く者の胸を打った。芸能プロダクションからオファーが有った時、貞子は迷った。
歌を歌う事は大好きで有った。其れを職業にする事は若い時からの夢で今現実となったのだから心は揺れた。貞子には其れを躊躇せざるを得ない決定的な理由が有ったのであったが、
其の危険を押しても歌い手に成りたいとの気持ちが勝ってしまった結果陽のあたる場所に立った。
  自分の背負った罪の深さが逃げても逃げても
追いかけて来るから。だが、歌手ととしての道でも、もしかしたらカモフラージュして歌って行けるのでは無いかと、その認識の甘さから芸能界に身を置いたのである。だが中学時代のクラスメートからのファンレターが届いて貞子は慄いた。結局今の栄光も諦めなければならない結果となってしまった。当時、男と逃げたのではないかと誠しやかな週刊誌の記事となって少しの間世間を騒がせていた。其れもじきに収まりを見せ、今は話題に上る事もすっかり無くなっている。法的な裁きに於いては貞子に罪は無かった。が、其れと知らずに縛られていて、赦される事の無い其の罪に世間の表舞台に出る事が絶対出来ない状況が身に染みて今の様に都会の隅っこでひっそりと隠れて暮らして居るので有る。
  其の生活は、いつあの歌手でタレントの
武蔵川ヒカルと悟られてしまうかとビクビクしながらで有ったから、極力飲み会やカラオケなど誘われても行かない様にしていた。
そんな生活の中で貞子の体重は10キロ近くも減って、其のせいもあり今のところヒカルで有る事は分かる事は無かった
   「泉川さん。」不意にチーフの渡辺信一に声をかけられた。昼休みの事である。
群れから外れ1人テーブルでの食事中だ。
「ご飯食べてる時悪いけど、ちょっといい?」
と言われた。信一から仕事の指示は日頃受けていたが、面と向かって話しかけられたのは初めての事である。一瞬心が用心した。
「はい、」仕方なく言うと、「今度、一度外で会いたいのだけど、どうだろう?」と聞いてきたのである。貞子は信一の胸の内を探った。
会いたい、其の真意は何んなのだろう?
どちらにしても2人で会うのは避けたかった。
だから黙っていると、「もう直ぐ君の誕生日だよね。其れを機会にして会いたいのだけど。」
其れは貞子を好きだと言っている様に聞こえたのである。「あ、でも私・・」躊躇して狼狽した。信一が独身で有るのは知っていた。
しかし彼は諦めなかった。「今夜電話入れるから考えて置いてね。」貞子は其のやり取りを周りが気づいて無い事に安堵した。
   約束通りに其の夜信一からの着信が有った。
お風呂に入っている時は素の自分に戻れる唯一の時間。
華やかな時代の自分の持ち歌を口ずさんでいる。貞子の相変わらずの魅力的な声が小さな風呂場に木霊する。唯一自分に戻れる其の風呂からあがると携帯が鳴ってブルブルとコタツの上で振動している。信一からだ。そう思うと気が重い。
   「はい、泉川です。」仕方無く応答した。
「あ、寝ていたかと思ったよ。遅いから、」
話しながら信一が笑っているのが分かる。明るくて優しい声だ。「君は何か隠してるのと違うの?」突然の核心を突く言葉に息がつまる。
「い、いえ別に。」しどろもどろに応えた。
「お願いだから僕には心を開いてよ。」信一からの懇願である。頑なな貞子の毎日を不思議と思うのは当然かも知れなかった。
「ね。会ってくれない?」其の気持ちは本当かもと貞子は感じた。「ええ、」うっかりと了承したかの様に言ってしまった。信一の嬉しそうな言葉が間髪入れず返って来た。「本当?!本当に?明日の夜どうかなぁ?」もう観念しなければならないだろう。貞子は其れを飲むしか無かった。信一は45歳。バツイチ男である。
 スーパーでの仕事は社員並みの夜8時迄で有った。信一も同じで有ったから一足先に貞子は店を出て花小金井駅前の喫茶店で信一を待った。
チーフとしての仕事が信一には残って居るからその間15分位は待つ事になるだろうと観念していた。だが、30分待っても信一は姿を見せない。・やはりからかったんだ、そうだよ、私なんか相手にする筈も無いわね。帰ろう・と席を立った時だった。見知らぬ男をと連れだって信一は来たのである。「待たせちゃってごめん。この方と待ち合わせたもんだから。」と其の男を見て言った。丁度還暦位の身体付きがしっかりした男である。何処か目付きがするどかった。軽く頭を下げてはみたものの貞子は其の男を用心して立ち去りたかった。
「すみません。泉川さん、いえ、上野さんかな?其れともヒカルさん?」貞子はビクッとして身体が硬くなった。
・何故本名を知ってるのだろう?ヒカルも?・貞子は恐れた。「いえ泉川です。」冷静さを取り繕ってそう応えた。「あ、申し遅れました。私は練馬署で以前捜査員をしていた小暮と言います。今は退職して探偵事務所を経営してるんですよ。この信一君とはお兄さんと幼馴染なんです。」
貞子は練馬と聞いて尚更驚き、ああ、もうダメだ、とうとう来るべき時が来たと観念し、信一の顔を見た。「ごめんね、僕は泉川さんの事好きで、興味が有ったから、つい履歴書を見てしまったんだ。そしたら上野絵梨子って。」貞子はもう黙って座っているしか無い。
「何故偽名で働いてんだろ?って不思議になってね、君の事良く観察していたんだ。」
「毎日君を見てるとね、目立た無い様に振舞って居るんじゃ無いか、そう思えて来てね。」
履歴書は其の時の店長と次長に父親の借金で追われて居るので、偽名で働かせてと、頼み込んで雇って貰ったものだ。二人とも律儀で誰にも其の事を話さないまま転勤で花小金井店から出たのである。。一回ロッカーに整理されると履歴書を見る事は早々無い事で有ったから、真逆信一が其れを見るなど思っても無い事だった。
貞子の肩が緊張で上がっている。
其の時店員がオーダーを取りに来た。
貞子がホット珈琲を飲んでいたから2人は同じ物をオーダーした。
「其の話を信一君から聞いてね、軽い気持ちで調べてみるかとなってね、泉川さんの写真を信一君から見せて貰ったんだ。」信一の言葉を次ぐ様に小暮が話し始めた。この初老の探偵はもう何もかも調べあげたのに違い無い、といよいよ貞子は観念した。

   思い返してみるともうあれから27年が経過している。貞子の母は貞子の父を病気で亡くし、貞子を連れて上野雅夫の元へ後妻に入った。貞子が12歳の時である。
だが元々身体が弱かった母、貴美恵は貞子が高校に入学した直後腎臓を悪くしてしまった。
其れから約1年、貴美恵は入退院を繰り返し
貞子が16歳の誕生日を迎える年の寒い朝帰らぬ人となった。貞子改めて絵梨子は養父の忠夫のところに独り残されてしまったのてある。
其の頃忠夫は未だ40を少し過ぎたばかりで有った。しかし自分の子の様に絵里子を可愛がってくれては居たのである。だが妻に2度も先立たれ気持ちが落ちていたのであるのか、その年の夏休みに入った盆踊りの有った深夜絵梨子の寝室に入って来て寝ていた絵梨子にいきなり抱きついたのである。「お、お父さん、どうしたの!」叫ぶ絵梨子の声を無視してパジャマのズボンを脱がそうと喘ぐ。絵梨子は夢中で手で払いのけた。
ふらついた忠夫は仰け反りベッドの反対側に頭をぶつけて倒れた。絵梨子は気が動転した。
忠夫は倒れたまま動かない。死んだと思った。
どう動いたのか今考えても分からないが、着替えて当座要るものを持ち家を飛び出した、
財布の中にはアルバイトで得た給金が多少であるが手付けず入っている。家から高田の馬場までタクシーで走り、深夜の電車に飛び乗り西武新宿駅まで逃げた。事の真相が発覚する迄にはまだ少しの時間は有るだろう。
JRの新宿駅まで歩きながら絵梨子は巡る巡る頭を働かせた。・どうしたらいいの、お父さんを殺してしまった。部屋はあのまま、私の犯行は時期に分かってしまう。隠れなきゃ、何処か遠くに行ってしまおうか、・眠らない街新宿の其の人の通りを眺めてると、植え込みの柵に腰掛けている自分が実に情けなく惨めで怖くて涙がポツポツと溢れて来た。殺してしまった忠夫に対する罪の重さが押し寄せる。貴美恵の事、学校の事など次々に頭を過る。こんな事で昌おばちゃんにも頼れない。元より親戚は貴美恵の妹の其の昌しかいない。
そんな絵梨子に一人の男が声をかけて来た。
深夜に独りで泣いてる若い女は其の男の格好なカモで有ったのだ。其の夜抵抗も虚しく絵梨子はその男に身体を奪われてしまった。
そうなってしまえば貞子の年齢の娘は苦も無く男の言いなりになるしか無かった。
  次の日から絵梨子は如何わしいパブで働き始めたのである。男は其の店のバーテンで有った。
未成年者に化粧して派手な服を着させ客を接待させる。この店から絵梨子の事は漏れない。
嫌だけど働けばお金に不自由する事も無い。
其の時の絵梨子には都合の良い事でも有った。
勿論、怖さが有ったが隠れるのには丁度良い温度の場所で有ったから怖さに其れが勝ち裏の社会に身を置いたのである。あれから2日が過ぎた。流石に忠夫の事が気にかかり始めた。
 新聞を買って見てみた。一面の裏に其れは乗っていた。
練馬区関町のアパートで上野忠夫さんの死体が見つかる。】本日午前11時頃新聞の集金人からの110番の通報で練馬区関町3-3-2 金村荘 203号室から死後2日から3日の借り主の上野忠夫さんの遺体が見つかり現場に同居の長女上野絵梨子さんの姿が無く鍵も掛けて無かった事から、絵梨子さんが何らかの事情を知っていると見て練馬警察署が捜索を始めた。
尚上野忠夫さんの死因についても調べを始めている。・と言うもので有った。
其れから毎日その後の事件の進展を気にかけて来たのだが今日まで見逃したのかも知れないのだが其の事の報道は無く、また捜査の手も絵梨子に届く事も無かったのである。
目の前にいるこの探偵は何処まで調べたのか、今絵梨子は針のムシロに座らされている、そんな気持ちで木暮の言葉をじっと待っていた。
  「実は24年前に、まだ私が練馬署にいたときに、こんな事案があったんですよ。」
絵梨子はぐっと身体に力が入る。・やはり・
「まだその年の夏に入って間も無い暑い日にね。上野忠夫さんが死後2日経って発見されたんです。」「当時彼はなさぬ仲の長女絵梨子さんと同居してましてね、失踪してましたから当然被疑者として捜索したのですが、忠夫さんは仰向けに倒れて壁に頭をぶつけてました。嘔吐もね。で、警視庁が詳しく死因を調べました。絵梨子さんの寝室でしたし、急いで出た形跡も有りました。鍵もかけては無かったですから。ま、練馬署でも事件性は薄いとの判断はしていてのです。」「死因は倒れる前に有りましたよ。クモ膜下です。脳幹がやられてまして即死状態で倒れた訳です。」絵梨子は小暮を凝視した。其の胸は激しく打ち始めた。
其れでも何も言わず待った。
「其の現状から絵梨子さんは忠夫さんに無体な事をされて、払いのけたりして倒れて動かなくなった忠夫さんに驚き逃げたのだろうとの見解になったんですよ。」小暮は此処から急に言葉が優しくなった。「寧ろ、ね、まだ16歳のお嬢さんの方が被害者だったんです。どうです?この辺りで本当の事を教えてくれ無いかな?
あなたが絵梨子さんであれば、私も貴女のおばさん昌さんのこれまでの苦労も消えるんです。」昌おばちゃんの話が出て絵梨子は感情を抑える事が限界になってしまった。小暮の話が誘導尋問で有ったとしても、もう隠している事は辛過ぎたのである。意を決してポツリポツリと話し始めた。「本当、に」其れを聞いて2人は同時にうなづいた。待っていたので在ろう。
「申し分け有りません。上野絵梨子です。」
やはり!と小暮はガッツポーズを取った。
「実は、絵梨子さんは殺人を犯してしまったと思い込んでる節が有りました。ぱったりと消息が無くなり、おばさんの昌さんが心配されて、当時私に捜索を依頼されて来たんです。私も事実を知ら無い貴女が気の毒で暫くの間は許可を得て捜索したんです。新宿のパブにいた事は判明しました。其の時の写真からその後の歌手の武蔵川ヒカルさんでは無いかと、そこまでは何とか合間に調べて分かってはいました。でもその後あの失踪事件からぱったりと足が取れなくなってね。やはりヒカルさんでしょ?」この小暮と昌おばさんが心配して捜してくれていた。其の事実は張り詰めてていた絵梨子の心の壁を外した。周りの眼を気にする事も無く顔を手で覆い声をあげて泣いた。其れを2人も止め無いで見ている。信一の瞼も濡れている。
泣きながらも「お父さんは本当に倒れる前に死んだんですね?」としゃくりあげるように話すと、小暮は絵梨子の肩に手を置き、「そうだよ、くも膜下、其れは間違い無い事だよ。長い間絵梨子さん、大変キツイ思いをしてしまったね。どうして昌さんだけにでも連絡をしなかったの?」
と聞く労う其の声はあくまでも優しい。
「あの日、タクシーで必死に高田馬場まで出たの。新宿の駅で男に声をかけられて、私其れが嫌でお父さんを殺したのに、其の男に其の夜犯されました。そしてあのパブで働かされてました。時には客を取らされたり、そんな自分と、殺人の罪が怖くて、私誰にも連絡出来なかったんです。」小暮の顔は曇った。「そうだろな〜。」「で、どうして芸能界に?」と其の問いに「パブで客と歌っていて其の歌唱力をたまたま来ていた芸能プロダクションの人か聴いていたんです。歌手として挑戦してみ無いかと言われました。
其の頃になると其のパブの古株になっていて、
男からの縛りも無くなってたし、元々憧れてたものだから。でも罪は私に憑いて離れませんでした。中学生の時の友達からファンレターが来たんです。素性が表に出てしまうんでは無いかと、私歌からも逃げて、其れからは逃げて、隠して、とてもとても長かった。」また涙がポツリと落ちた。信一はじっと聞いている。
「実はね、信一君から絵梨子さんの事で相談されてね、経験上写真を貰ったんだよ。今の絵梨子さんの。」「パブの時代、歌手の時代、其れと並べて見てるとね。骨格が似てる。これは俺が探し求めてる上野絵梨子さんでは無いかと胸が踊りましたよ。
得に前の二枚はね似てる化粧をしてるから同一人物だと確信していた。で今の絵梨子さんの写真に化粧を合成して見たら、痩せてはいるけど似ていたんだ。で合わせてくれるようにして貰ったんだよ。ほら。」とテーブルに絵梨子の方に向けて3枚の自分の写真を並べた。3枚とも絵梨子其のものであった。
絵梨子は疑問に思っている事を小暮に聞いた。「あの、小暮さん。今は探偵をされてると伺いましたけど、何故刑事を辞めたのですか?もしかして私の事に関わり過ぎて、」遮るように小暮が否定した。「いや、関係無いよ。刑事に嫌気がさしただけですよ。」そして立ち上がると信一を見て「いやぁ、信一君の機転で絵梨子さんに本当の事を言ってあげる事出来て良かったよ。なら今夜はこれで。」と立ち去ろうとした。絵梨子は尚も言った。「本当に、私のせいでは?」小暮は振り向かずに手を振って、否定しながら「昌さんに連絡をね。元気でな。」と言って店の隅に設置されているピアノ席の奏者に何か話していたが、その後一度も2人を見る事も無く店を出て行く。信一はボソッと言った。「かっこいい人だなぁー、君に真相を言う事にずっと拘っていたんだ彼。」絵梨子はそのかっこ良すぎる男の後ろ姿が見えなくなる迄凝視していた。涙で揺れながら消えて行く。
その時、店のアナウンスが響いた。「今夜はバラードの女王、武蔵川ヒカルさんが来店されてます。お客様からご指名が有りました。【通りゆく時雲の流れに】をお願いしたいと思います。武蔵川ヒカルさんを温かい拍手でお迎えしましょう。」小暮が耳打ちした事である。静かな店の中はヒカルと聞いてざわつき拍手をしている。信一はピアノのそばにと絵梨子を促した。躊躇してる間に前奏を奏者が引き出している。絵梨子の足は其れを聞いて自然にピアノの前に出た。懐かしい曲、今夜はお風呂では無く、隠す事も無く唄える。緊張もしてるけど嬉しい。
小さな喫茶店に小さなコンサート。絵梨子は懸命に歌い出した。その歌声はどんなステージよりも美しく、居合わせた客の胸を揺さぶる声。
歌い終えて頭を下げる絵梨子はこの時本当に長い間の隠遁生活が終わりを告げた事を強く強く感じていた。絵梨子を賛嘆する拍手が鳴り響いている。再度お辞儀をして絵梨子は信一の元へ。信一は絵梨子の顔をじっと見ていた。
まだ店の中のざわつきは収まりを知らなかった。。「泉川さん。あ、絵梨子さん。これからは歌手に戻るの?」
と聞いた。其れほど絵梨子の歌が素晴らしかったからである。絵梨子は頭を振った。
「もう、あの世界には帰らないわ、だって、チーフのそばで働いていたいもの。」信一はにんまりと笑った。「またまたぁー、嬉しがらせて、このー。」とふざける。「あら、冗談では無いのよ。本当だってばー。」と返した。
信一は真顔になった。「嬉しいなぁ。だけど、これからが大変かもだよ。ホラ、リポーターとかがドサッと来たりして。」そうかも知れなかった。でもそんな事どうでも良かった。絵梨子はすぐ目の前にある小さな幸せがとても大切である事を、罪を背負って失った24年の月日を暮らした中で習得していたのである。「ね、お腹空かない?何処かでラーメンでもどう?」と信一に聞くと、「空いた、空いた、行こう。」と笑った。
喫茶店から出て歩きながら2人は話す。
「渡辺チーフ、もしリポーター詰めかけたら助けてくれる?」「其れはどうだろなぁー、ほっとく!」と。絵梨子の顔を覗いて高らかに笑った。絵梨子も心の底から笑う。其の笑い声は深夜の駅前通りに木霊していた。嬉しそうに。楽しそうに。
其処には、通りゆく時雲の流れの果てに
罪に慄き息を殺して生きて来た孤独な女の影はもう何処にも見当たらなかった。
     終わり