白い月と黒い瞳

全く何もしたくは無かった。白い月が能登子の後を着いて歩いてる様に絶えず見えてはいた。
冴え冴えと身を刺す様な冷たい空気。其れは冬の朝のまだ6時を少し過ぎたばかり、此れから最低気温を記録する。まだ薄暗く山道を歩く彼女は行き先に何が潜むか知らぬも少しも寒さも感じては無かったし少しも恐ろしくは無い。
ただ空虚で何処でも良いから人生の終わりの場所を急いで探したかった。
もう少し時間が過ぎ明るくなればまだ民家も所々に点在する場所、誰かと遭遇してしまうかも知れない。能登子は少し先の脇道を分け入って行こうと決めた。1つだけ街灯が明るい。
其処を入ろう。きっと奥に行けば其の場所は見つかるかも知れない。そう思うと足が急ぐ。
其の脇道を入って少しすると道がどんどん狭くなって来て肩幅位の道になっていた。足元に雑草も増えて歩きずらい。元より高いヒールの靴を履いている。周りを見渡すと白んできたから周りが幾分か見易くなって、左の奥に丁度良い枝が伸びている松の樹が見えた。あ、あれにしよう。ふとその樹の下を見ると黄色の小菊が咲いている。
能登子は此れから旅立つには相応しいと思った。其処へ急ぐ。トートバッグから用意していたロープを其の枝へ向かって投げた。
松の樹を少し登り其処に首をかけ足を外せば足が地面から離れる其の位置へロープを結ぶと
いよいよ松の樹へ足をかけようとした。
其の時、この29年間の自分の人生は本当にろくなものでは無かったと頭を過ぎたのである。
両親の離婚、どちらにも引き取りを拒否され母方の実家に預けられて、この時代に中学を卒業したばかりの15歳で社会人となり独立して1人で生きて来たが最初に勤めた会社でイジメに遭い退職をしてから、お決まりの歪んだ世界に身を置き他の女や男と競争しながらその華やかな世界に身を置いてきた。
男に最初に身を任せたのも17歳になった春であった。
相手を愛した訳では無い。食べる為客の誘うまま抱かれたのである。其の時其の男は能登子に3万円をなげて寄こしたのである。店で酒と色気を売る。其れは最初の内は其れでも抵抗が有った。何時しか可愛い子ぶって男に貢がせるそんなテクニックも能登子は覚えた。源氏名をルイと名乗った。店が引けて男とそんな関係を持つのは勝手で有ったから、誘われれば断らない。 
いつの間にか貯金も増えて能登子はそんな自分がいけない事をして居る、そんな感覚もすっかり麻痺して行ったのである。
元々能登子は男好きのする顔と肢体をしており
そんな男どもを捕まえるのには苦労はしなかった。客には惚れない。其れを信条として、割り切って仕事をして来ていたし、金も降るように入って来て、ある種覚悟さえしてればあながち
悪い社会では無いと、寧ろこの間迄人生を高を括って謳歌していたのである。だがやはり甘くは無かった。頻繁に誘って来た客を少しづつ好きになって来たのである。其れが3年前の秋のだった。能登子の回顧はまだ続いて居るが
そんな能登子の様子を遠くの草むらから見ていた2つの眼が有る事に終ぞ気が付かない。
其の男は40歳を過ぎた毎朝新聞社の新聞記者をしている高村公平。仕事柄頭が良く能登子の店(ローズマリー)に時々来ては帰りに能登子を誘い出していたので有る。
  町田能登子 はこの公平に他の人には無い優しさと影のある部分を初めから魅力的と感じていた。
ただ公平は妻帯者で有り、あくまでも金と割り切っての付き合いをして来たのだが、半年も過ぎた頃にはその公平を愛していたのである。ただその頃から公平は店に来る客の噂話しを能登子から聞き出すのに躍起になって行って、手持ちの金が無いから用立ててくれるようにねだる様になっていったのである。
本心で惚れた事の無かった能登子。そうなると
公平の言う事を素直に聞き入れたし、金も用立てた。最初の頃は金をちゃんと返して来たから、能登子は公平をすっかり信用して行ったので有る。
  公平の公の顔は能登子にも少し前まで分からなかった。
スクープを度々記事にする敏腕の記者で有る事と家族持ちで有る事位は分かっていたのだが
其のスクープを得る為に狼の様に鋭く其の為にはどんな汚い手でも使う。時には被害者の家族にも奥まで貪欲に切り込む。其の為に今迄のスクープの陰にとうとう被害者側に自殺者まで出していた。そんな執拗なで行きすぎた取材をしていた公平だったから、その事は記者仲間にも当然乍ら良く知れ渡っており、再三上部からも注意を受けていた程で有ったのだ。其の上、金にだらしない事などを知ったのはつい2ヶ月前位だったのだ。
  能登子に近づいたのも彼女が貯めていた金目的で有ったのかも知れなかった。最初は返して来ていた。其れが持ち出したまま返さなくなって
其の上に要求する様になってしまっていたのである。
実に自分の身を削って作った三千万円程の貯金も定期を解約してしまった。一度緩めてしまうと其れが底を見せるのに時間は要さ無く、三千万の預金はもう45万円を残す迄に減っていて、その現実につくづく覚めた能登子の公平への気持ちが昨日遂に吹き出て、更に金を要求する公平と大喧嘩になってしまったのだ。公平は其の能登子に乱暴をはたらいた。
決して顔には手を出さない。表に出ない所を殴り、蹴ったので有る。そんな周到で狡い男であったのだった。能登子からはもう金は絞れ取れないと言う思いが有って腹癒せからの事だったのだろう。最初から能登子に愛情が有っての事では無かった。この時能登子は殴られながらそう思った。「この馬鹿女、今まで付き合ってあげたんだ!もう来るか!」と凄い声で捨台詞を吐き、公平は能登子のマンションから飛び出して行った。殴られた身体の痛みと、利用されていた悔しさと何もかも無くなったと思う強い喪失感だけが荒らされたリビングの隅で蹲る能登子を襲っていた。今の世界でまた稼ぐのにはもう女としても自信が無くなってしまっていたのである。周りを見ても親身に話せる人間は見当たら無かった。店のメンバーは事ある度に互いの足を引っ張る事しか考えていないし、
育ててくれた祖父母も既に亡くなって居て、このマンションにも夜昼真逆の生活の為に友達も出来なかったから失意の能登子を抱きしめて励ましてくれる人間は皆無で有ったのだ。この夜、能登子は遺書を書いた。このマンションの権利書とやっと護った45万円の預金通帳を目の前にして何で命を絶つのか其の理由を書き連ねて最後に寂しいと一言書いた。
便箋に涙が落ちて滲んでいく。この遺書を書き終わって其れを眺めている内に能登子は命を絶つ本当の決心が付いたのである。今山道を彷徨い其の終の場所を得て命を絶とうとしている。もう其の気持ちは揺らがない。
  準備は整っている。後は足を樹にかけ首をロープにかけて足を離せばよいだけだ。
丁度良い切り株が足の置き場となるから樹に少し登るのは簡単に出来た。ロープに首をかけた。足を外そう!  そう思った時其の様子を先ほどからじっと見ていた黒い瞳は風の様に駆け抜けた。そして其れは能登子の右腹に強く飛びついた。瞬間、昨日の打撲の所が鈍く痛く感じたが、後ろに倒れた能登子のその頭に時を移さず何かが強く当たり、唸り声をあげている能登子の其の意識は薄れていった。                        
            どの位の時間が経ったのか、能登子は沢山の手に導かれて暗いトンネルを明るい光の差してくる方向にグルグル回って昇っている。
あの光の外が天国なので在ろうか。
回る速度が増して往く。そして能登子の其の頬を暖かく、生っぽい物が絶えず触れて居るのに気が付いていた。能登子は光の元へ急ぎたい。しかし其の感触も気になって回りながら自分の頬に手を当てた。其の手に其の感触が移った。其の時トンネルも沢山の手もサッと消え去った。能登子の幾らか開いた瞳に黒い瞳がぼんやりと見えて来たのである。其の時だった。「あ、母さん、気が付いたみたいだ!」と若い男性の声が耳に飛び込んで来た。とても寒い。「ロン、もう大丈夫だよ。」其の声で黒い瞳は其の声の主に向いた様だ。・犬?犬が頬っぺたを?・おぼろげにそう理解した。松の木から少し移動はしていたが、あの林の草の上に寝かされて其の男性のだろうジャンバーが能登子にかけて有った。
其の男性が能登子を覗いた。そして丸顔の中年の女性の顔も覗いた。もうはっきりと其の二人の顔が見えている。
能登子は死に切れなった事を其の時認識したのである。「す、すみません・」身体中が痛い。頭も痛い。力なくそう言葉にすると、寒さを感じてる身体とは裏腹に暖かい涙が思わず溢れて流れ落ちた。「車に移動したいのだけど、どうすれば大丈夫?」と其の男性の母親と思われる女性が聞いた。「うん母さん、頭を怪我してるからタオルで押さえておいてよ。」「分かった。」そんなやり取りをしている。女性がタオルで能登子の頭を支えると、頭に傷口の痛みが幾らか感じた。能登子は抱き上げられて白いバンの後部座席に移され寝かされたのである。黒い瞳はやはり白い毛を持つ大きな柴犬の様だった。
決まり事の様に能登子の側に乗り移ると車の床に座って能登子を見ている。柴犬よりも大きい。「山道だからね、少し揺れるけど我慢してね。」と男が言う。
「あなたの持ち物、全て持って来ましたから、何も心配しないで、任せてね。」と女が言った。ドアーの閉まる音が頭に響いて車は幹線道路に向かって発信した。10分位走ったろうか。能登子が運ばれたのは幹線道路を東京の方角に走ったあの松の木の現場から少し離れた内科医院で有った。
もう、能登子はこの人々に任せるしか無い。
車が停まると医院の中から熊の様な体格の男が出て来て、「及川さんどうしたの?」と女に向かって言った。
及川京子。53歳。能登子の選んだ林の側で民宿を営んでいる。
       浩二19歳  京子の1人息子である。
京子の夫は拓也と言ったが5年前肺癌を患い
他界している
医院から出て来たのは
堂島達夫  52歳    堂島内科医院の院長である。
と言っても医師は彼一人で看護士上がりの達夫の妻の和子と二人でこの医院を開業している。
「いえ、うちのお客様が林の中で転んで、頭を打ったんです。先生、お願いします。」と京子が堂島医師に頼んだ。「そ、それは大変だ〜。どれどれ〜。」とバンの後部座席に寝かされている能登子を覗いた。「ロン、また君が見つけたんだねぇ〜。」と言いながら犬の頭を撫でている。「浩二君手伝って!中に運ぶから。」
能登子はされるままにするしか無い。
  田舎の医院にしては医療機器が揃っていた。
直ぐに頭部のレントゲン検査がされて、脳波も取った。幸いに脳は何でも無かった。其れよりも堂島医師は能登子の身体の打撲に驚いた。だが顔には出さない。能登子も隠したくても隠せなく仕方なく大人しくするしか術は無かった。堂島は知らん顔で能登子に言った。
「良かったね。頭は大丈夫だよ。あ、君の名前は?」「あ、東京からいらした永井能登子さんです。」と言って京子は能登子の保険証を堂島医師に出して見せた。幾分か京子の保険証を持つ手が震えていたのだがその場にいた誰も気づく事は無い。「あ、其れね、うちの奥さんに渡しておいて。」と言うと、其の後ろにいた和子がニコニコしながら保険証を受け取ったのである
いつの間にか全部探してくれていると能登子は京子の顔を済まなそうに見つめた。
京子はただ其れにうなづいている。
其の後頭の傷口を3針縫合して治療は終わった。
「今日は安静にしてね。大丈夫だけど一応ね。山道を歩く時は足元気を付けんと、都会の人は慣れて無いからねぇ〜。其れから打撲の方は治るのに暫く時間が必要だね。ま、東京に帰ったら気長にね。」と能登子の顔を見ながらそう言う。「有りがとう先生。お客さん、連れて帰っても良いですか?」京子には山梨訛りが無く綺麗な標準語で話している。堂島もそうだった。「うん、入院の必要は無いでしょう。いつまで及川さんの所にに泊まるのかな。?」
「あ、明日まで予約頂いてます。」と京子が言った。「其れなら、明日帰るまで安静にしててね。」何もかも京子が気配りして能登子は幸い余り口を開かないで診療を受ける事が出来たので有った。心底及川親子に頭が下がる思いがしていた。今迄人の思いやりに余り遭遇しては居なかったから、能登子の今の辛い境遇の片隅が少し温まり溶けていく様な気持ちがしていた。
身体中が痛かったが和子の手で頭に包帯が巻かれ治療は全て終わった。能登子は堂島に頭を下げて、浩二に肩を借りて医院を出たのである。
ロンは大人しく車で寝ていた。能登子はこのロンに命を貰ったので有る。眼を覚ましたロンは
本当に黒い瞳がクリクリしてて肌色の大きな鼻の頭が可愛らしい。京子は少し遅れて車に戻って来た。「さ、帰りましょう。永井さん。今日はうちに泊まって下さいね。気兼ね無くね。」「そりゃそうだよ、他に客居ないんじゃん。」浩二がカラカラ笑っている。能登子は緊張した身体が解れて行くのをこの時感じていた。
 能登子が死に場所に選んで来たのは山梨県のあの上九一色村であった。富士山の山梨県側の此処では冬場でも雪が降る事は余り無く、ただ富士山を降りてくる冷たい風は辺りを途轍もなく冷やす。逆の静岡県の富士吉田側には雪が多い。日本一の山の裾野のこの辺り一面が能登子を誘った様な山道がある林また林の所である。あのオウム事件で一躍日本中に知れ渡った。其れは地元の人にしてみれば何と不名誉の事か。能登子が首を吊ろうとした所から直ぐ側に其の民宿、「民宿・及川」が有った。広い庭を持つ旅館かとも間違える其の佇まい。落ち着く日本風の建物である。
浩二が客が無いと言っていた通り、8部屋有る客間は全て空いており、能登子は二人の居住している所の直ぐ側の部屋に通されて直ぐに寝具が整った。「お腹空いたでしょ?直ぐに用意しますね。こんな所だから田舎の料理だけどね。」と京子が部屋を出ようとした。「あ、あの〜、」其の能登子の声に振り向いた。「事情を、こんな事をした事情を・」「其れは、聞かなくても何となく、ね?でも食事済んだら、もし良かったら話して。」そう言い残して部屋を出て行った。能登子は布団の脇にペタッと座り、感極まって泣いた。其の布団に突っ伏して泣いた。心からの悔いる思いで泣いた。
まだ、自分をかまってくれる人がいた事が嬉しくて泣いた。其の声を部屋の外で京子は聞いていたのだ。薄っすらと涙を浮かべて。その胸の奥で叫んでいた。・能登子ちゃん、何が有ったの!この26年の間に、一体何が!・京子は其の思いに胸が張りさける様だった。さっき、能登子の身元を調べるために京子のバッグから運転免許証を見つけて其れに驚き見てからの其の思いであったのだ。
其の記載された本籍は能登子の祖父母の住まいと同じ所番地で有ったから、あの自分が置いて来た正に能登子で有ると分かってしまったのだ。
今では免許証に本籍の記載は隠されているのだが。まだこの当時は記載されていたのである。
驚いたが嘘の様な事が今おきていた。
思い起こして悔やまれて仕方ない。浩二が摘んで来た山菜を天ぷらに揚げながら京子は自分を責めた。
そして悩んだ。其の事を言うべきか、黙って居るべきか。本当に有り得ない偶然だった。そして其の事は京子に非が有る事では全く無かったから余計に悩んだのである。
能登子は京子の前の夫である登喜夫とは血の繋がらない前妻の連れ子で有った。あの頃はまだ能登子は2歳を過ぎたばかり、前妻と別れる時に在ろう事か血の繋がって無い登喜夫の元に能登子を置いたまま出て行ってしまった母親。能登子はまだ1歳を過ぎたばかりでヨチヨチ歩き始めた頃の事だ。別に男がいた様だ。京子が其の登喜夫と結婚した時に其の事実が分かったのだが、能登子の余りの可愛さに2人の養子として登録し育てていたのである。能登子も京子をママ、ママと呼んで懐いていた。だが登喜夫との生活は上手く行かず、其の離婚のさい、登喜夫は本当の母親の両親に能登子を託した。能登子は4歳になっていた。京子の心は揺れた。自分が引き取ろうか、どうしようか、其れ程に能登子が可愛いかった。しかし幼い子供を連れてこれからどの位の事を能登子ににしてあげられるだろうか。
悩みに悩んで登喜夫の取った道に能登子の将来を預けたのである。血の繋がりの有る祖父母に委ねるのが理で有ったのだ。其れが26年前の事であった。今、其の能登子が何を悩んだのか死を決して、有ろう事か自分の側に其の場所を選び、偶然に出会ってしまった。
其の京子の思いは複雑で千々に乱れて居たのである。揚げ終わった山菜を竹で編んだ器に盛り、大根の味噌汁や鮎を焼いて食事の用意が済んだ。自分達も朝食はまだで有る。能登子を食堂に呼んで一緒に食べようと、浩二に能登子に声をかけるように頼んだ。浩二も姉を呼びに行く様に嬉しそうに飛んでいく。「永井さん、起きれる?食事になるから来て下さいって!」と部屋の外から声をかけると能登子はドアーを開けた。「有りがとう、少し待ってね、直ぐ行きます。」と返事をした。「あ、幹線道路に駐車してあった車、鍵がバッグに有ったからうちの駐車場に移動しておいたよ。あの水色の車でしょ?」この部屋の窓からその駐車場が見えた。確かに東京から失意の能登子が夜中に走って来た車である。其れを見て何もかも世話になっていると、能登子は感謝した。そしてふと、何故警察に届け無いのだろうと不思議な思いが過った。其の車は鍵の所在を京子に浩二が伝えると、黙って探して車が有ったら此処に移動する様に言われたものである。浩二は人に親切なそんな京子が誇りで有り、言葉通りに受け取って車を運んで来たのであった。「本当にロンが居なかったら永井さん今頃死んでたところだよ、いつの間にかあいつあの松のところに行ってだんだ。利己な秋田犬でね、助けたの永井さんで2人目。可愛い奴何だ。」浩二は嬉しそうにロンの話をしたから能登子は黙って何度もうなづいた。確かにあの黒い瞳が自分を護ってくれた。・そうか、ロンは秋田犬だったのね・
「早く来てよ。」と浩二は言い残し食堂に戻って行く。其の後ろ姿が涙で滲んで見えにくい。
  昨日の夜から何も口に入れて居なかった。
だから京子の作った料理は傷心の能登子はとても美味しいかった。山菜の天ぷら、この山菜は今朝浩二があの林で積んだものだろう。味が濃くて新鮮だ。大根の味噌汁も何処か懐かしい味がして美味しい。其の様子を見て京子も嬉しかった。大根の味噌汁は能登子の好きな物。
わざわざ具を大根にしたものだ。
  「良かった。ご飯が食べれれば、もう馬鹿な事は考え無いでしょ?」と京子は聞いた。
箸を置いて能登子は応えた。「はい、2度と、もう2度とあんな馬鹿な真似は決して。」
能登子は全て話そう、この京子に話そうと何故だか思った。「話してくれるのね。あ、浩二は出て行って。」浩二は膨れた。ロンもクウンと鳴いた。「何だよ母さん、俺、もう大人の話し聞いたって理解出来るよ。」「ええ、息子さんにも聞いて貰いたいです。」と京子に言った。
京子がうなづくと浩二は椅子に後ろ向きに座った。話す能登子の顔を見てはいけない様な気がしたからである。何も後ろを向く事も無いのだか・・。
  能登子は何故だか幼い頃からの事から話した。
昨日迄の事を。全部話した。其の話は1時間もかかる程だった。京子は聞いていて涙が溢れて仕方が無い。やはり、其の話の中では自分と登喜夫が離婚の際どちらも引き取られなかった両親として語られていた。だが其の後に於いても自分が其の能登子を引き取らなかった女で有るとは名乗らなかった。少しの罪の意識が働いたのかはっきりとは分からない。言えなかった。「そうなのね。苦労のし通し。でも決してこの先悪い事ばかりでは無いわ。そう思わない?」能登子の顔を覗き込む様に京子は聞いた。「はい、せっかく貯めたお金は消えてしまったけど、見ず知らずの私にこんなに良くして貰って、だから決して一人では無いと分かりました。お金ばかりが大切では無いと。」其の能登子の言葉に「そうだよー、母さんを本当の母さんだと思って、また来れば良いよ。」突然浩二が言ったものだから、京子はドキッとした。
「用立てて貰った治療費と宿泊代、明日精算しますので奥さん、請求して下さいね。」
能登子はそう言った。そう言う事でもう死ぬ何て事決してしないと分かって貰いたかった。
「でもさー、その新聞記者この先ろくな事無いじゃねぇ〜。」そんな風に浩二が言ったから京子は「何だろう、浩二、高校生みたいに喋って。」と笑う。そして「だけどそうだよね。人を其れだけいたぶって普通に世間渡れる筈が無いわ。今は良いけどこの先ね。」と全く浩二と同じ事を話した。「はい。でももう忘れて、私新しく出直します。仕事も辞めて。」能登子はこの事を機会に水商売から身を引く決心をしていた。
若い時から能登子の生きて来た其の道を捨てるのは容易に出来る事では無いだろう。京子はそれでも今の能登子なら抜け出れるかも知れないと聞いてて思った。また抜け出て欲しかった。
能登子にはやり直しの効くまだ其の若さがある。・出来る限りの応援をしよう。・と、決心をしたのである。             
  能登子は京子の元でゆっくりと一晩身体と気持ちを休めて帰り支度をし、玄関ロビーに設置されていた寄せ書きノートに自分の電話番号を書き残し、民宿及川の電話番号を控えて翌日の昼前京子親子に見送られて、東京へと帰路の車を走らせたのである。まだ縫合した頭の傷は少し痛かったが、よく晴れた師走の其の行き過ぎて行く景色は鮮やかな冬の、冬しか無い色が眼に映って、よく晴れた空と溶け合い眩しかった。今は覆っていた死の影が能登子からストンと抜け落ちて、おとといの夜中に上九一色村に向かうその能登子の打ちひしがれた姿はもう何処にも無いのである。都会の雑踏の中に在る中野の自宅マンションの駐車場に戻ったのは夕方6時にもう直ぐなろうとしている頃であった。
          まず荒れたリビングの片付けから始めた。倒れた椅子、割れたコーヒーカップ、床の掃除、頭を傷つけ、身体中の打撲を抱えて終わると流石に疲れと眩暈が襲って来た。何故か自分の家がよそよそしく感じていた。
 能登子は電話の子機を手にしてソファに深く腰を掛けると暫くダイヤルもぜず落ち着くまで待った。5分程して漸くローズマリーのダイヤルボタンを押した。「はい、ローズマリーです。」バーテンダーの奥山だ。「ママいる?ルイです。」「ルイ?あんた何処に言ってたのよ〜、ママおかんむりよ〜。」奥山の男としては疳高く女っぽい口調が耳元で響き頭が痛い。「ごめん、ちょっと急に親戚にいろいろあって、」「あら、そうなの〜、ちょっと待ってて〜。」まだ店は準備中なのだろう。営業時間には奥山は余り話さない。だからこんな面がある事を客は知らないだろう。ホステスには無害で有るから人気では有るのだが。そんな事を思いながらママが電話に出るのを待った。「待たせたわねー。」とママの声、明らかに気分を害してるようだ。「お早うございます。ママ。」「あんた今日は出れるんでしょ?連絡位欲しいわね。高村さん夕べ暴れて大変だったんだから。」やはりか、と能登子は思った。
「すみませんでした。ママ、でも今夜も店には出れないの。」途端に「ルイ、何言ってんよ!辞めるんじぁないんだろうね!あんた!」
ママの声が抗っている。「そうなんです。店辞めさせて下さい。」「このクリスマス前の忙しいのにどうしてよ!」このママは雇われママのマサミと言う。店の女の子には気が荒く陰口を言うホステスが大半で有った。
「私の叔母が具合悪くて、叔母の民宿を手伝う事になったの。」「あんたにおばさんなんていたの!天涯孤独だと思ってたわよ。駄目よ、オーナーだって許さないわよ。」思っていた通りである。能登子はローズマリーに長く居て一番の稼ぎ手で有ったから簡単に手放すはずが無い。
でも今の能登子には店に借金がある訳でも無く、辞める辞めないは能登子の自由で有る筈で有ったから能登子も強気に出た。「明日にでも叔母の所に移らなければいけないんです。もう出れません。オーナーにそう伝えて下さい。」と言い切った。
「叔母さんって、何処に行くのよ!」もう怒鳴っている。「山梨です。」「山梨!ルイ、引き抜きじゃないんでしょうねぇ!」能登子は其処で電話を切った。この世界の人間は人の言う事をまともには取らない。ましてママやオーナーともなれば尚更で有った。NO1ホステスの引き抜きは店の経営の死活問題と成り得る。能登子は意思は伝えた。もう行かなくでも大丈夫だろう。そう割り切った。夕べ高村が暴れたのは気にかかる事だったが、疲れていたからもう気にしない事にした。冷蔵庫の中に有る物で急いで夕食を食べて念入りに戸締りをして早く休む事にした。高村がまた来る可能性が有るからで有る。もう、公平には断固として逢わないと心に誓ったのであった。
  冬の朝は遅い。6時を回ってもカーテンの隙間からは薄暗い空しか見えては居ない。
打撲の跡が痛くて余り良くは寝ては居なかったが、能登子は新しい人生を始める為1日も無駄にはしたくなかった。今日はこのマンションを購入した時の不動産屋に連絡を取ってこの部屋を売却する相談がしたい。出来ればその会社へ出向きたいと考えたのである。
何にしても生きると決めた以上、能登子は強くならなければいけない。其の強くなろうと決めたせいで有るのか何時にも無い食欲となって思わず鳴り続けるお腹を手で抑えた。冷蔵庫の中にはもう食材は乏しかった。顔を洗って下のコンビニへ行こうと急いだ。
外へ出ようとしてドアーを開けるも重くて開かない。変だな、と思いつつ力任せに押した。顔が出る位開いたのでそこから覗いてみると、
其処には何と、明らかに泥酔している公平が寄りかかり足を投げ出して座り混んでいるではないか。驚きは半端なものでは無かったが、やっとドアーの少し空いた隙間から能登子は急いで外に出て鍵をかけた。公平を部屋に入れる気はさらさら無い。気づかずに鼻を鳴らして寝ている公平を跨ぐと急いでマンションを下りた。まだ管理人は来ては居ない。仕方なくコンビニに飛び込んだ。バイトでは無く、コンビニのオーナーが店番をしている。「す、すみません。このマンションの三階の永井ですが、うちの前に酔っ払いが寝てて110番して貰えますか!?」とオーナーに言うと、何号室なの?と笑って聞いて来た。「305です。」笑いながらも電話を取ると110番通報をしてくれたので有る。
「困ったもんだよねぇーこの時期、この辺り酔っ払いが増えて、家間違えたんかな?」と笑っている。能登子はコンビニに暫くいて様子を見る事にした。暫くするとパトカーがマンションに停まり、巡査が2人出て来て入って行った。
能登子は雑誌の並んでいる所から其れを見ていた。暫くするとだらし無く巡査に抱えられて
公平がパトカーに乗せられていく。乱れた前髪の間からその公平が能登子を赤い目をして睨んだように感じて咄嗟に能登子は屈んだ。其れは気のせいだったかも知れない。その時初老の巡査がコンビニに入って来た。「通報されたのはどなたですか?」とオーナーに聞いている。
能登子は「私の家の前です。私が頼みました。」とその巡査に正直に言った。
知り合いかと聞かれて、能登子は首を横に振って否定した。すると、本人にも確認したのだけど、泥酔してるからはっきりとしないらしく、知らない家だと言っているんだ。と話した。
泥酔していても浮気相手の家であるとは公平にも言えなかったので有ろう。そのまま公平は警察署へ連れて行かれたのである。
  ひとまず店のオーナーにお礼を言うと能登子は何も買わずに急いで家へ帰って来た。
そして部屋の隅にへたへたと座り混んでしまったのである。もう公平がまた直ぐ来るだろうこの家に一時も居たくなくなって腰が落ち着かなくなってしまっていた。
手は躊躇いもせずに電話の子機にのびて、あの上九一色村の民宿及川の番号を押していたので有る。能登子には本当に今京子しか無かったのだ。その京子は一瞬躊躇ったが、直ぐに荷物を纏めていらっしゃいと能登子に言ったのである。つい昨日別れたばかりなのに懐かしい気持ちでいっぱいになっている。京子が何故自分を快く受け入れてくれるのか、なんてそんな事も不思議とは思わず、何も考えずに急いで荷造りをした。家具はそのままにして衣類と靴やバック、宝石類と家の権利書と貯金通帳などを車に積み、ガスの元栓を閉め電気のブレーカーを切ると、夕べ此処に帰って来たその道をまた京子の待つ上九一色村に車を走らせたので有る。もう東京には戻らないだろう。其れはそんな一大決心の、考えても居なかったこれまでの能登子自身からの逃避行となる旅なので有った。  
 東京を出る頃になって曇っていた空が冷たい雪混じりの雨となっていった。ワイパーを作動させる。フロントガラスに重たい雨が張り付くのを其れは懸命に払っている。今の能登子の状況にそれは似ていた。師走の空気は冷たい。東京よりも寒さは増している。朝から何も口にしてない能登子は余計に寒い気がして、真っ直ぐに山梨へと思ってはいたのだが、思い直して談合坂サービスエリアへ車を停めた。普通の日と言うのに案外とサービスエリアは込み合っている。少し並びトイレを済ませ、ホットドッグとコーヒーを購入してヒーターの残りでまだ少し暖かい車に戻ると其れを頬張った。一口、二口、喉をパンが通って行く。コーヒーを飲みながらしみじみと思う。
この短い間にこれまでの生活が180度変わるような出来事が有り、正に今新しい自分が始まろうとしている。そんな事が頭で渦巻いて、ふと不思議な思いに浸っていった。
・・何故、私はあの上九一色村の永井に向かうのだろう。確かに頼るところは無いけれど、自然に思いが京子へ向いている。どこか懐かしい。他に方法は有った筈、少しの間ホテル住まいしても良かったのに当然のように京子を頼っている。何故なのだろう。・ ・  能登子はそう思っていながら、だがだからと言ってまた来た道を戻る気はサラサラ無かった。素直に京子の元へ行こう。そう改めて決めるとまた車のエンジンをかけたので有る。山梨へ近づいて行くと段々と空が明るさを増していって、時雨はいつの間にか止んだ。小さな車の中は荷物がいっぱい。車を含めた今の能登子の全財産である。派手な世界で生きて来たから持っている服も、アクセサリーも、バックも靴も其の世界で生きていく道具であった。今着ているセーターもパンツもヒールの高いピンクの靴も見るからに素人の女が身につける物では無い。初めて其れに小さな恥ずかしみを覚えていた。此れからは少し変えていかなければならないのだろう。転出届けや仕事の事など、考える事は山積みだけれど今はひたすら京子の元へいく。其処からどこか道が開いて行くような気持ちがしているのだ。視界は周りが広々とした山や林になっていく。もう直ぐあの,民宿永井,が見えてくる。
一抹の希望を胸に能登子はハンドルを握る。
  幹線道路から右にハンドルを切った。昨日東京へと出発した及川の駐車場への5メートル程の幅の道である。其の車の音が聞こえたのか玄関に京子とロンが出て来た。
 客が泊まるらしい。先に車が2台入れてある。
田舎の敷地は広い。能登子の車も其の左隣に停められる。わざと前向きに駐車すると、能登子は飛び出す様に車を出て玄関へと駆けて行くのだった。何が自分をそうさせるのか、能登子自身解らない。だが間違いなくその視線の先に微笑んでいる京子が立っている。
真っしぐらに其処へ飛んで行った。
其の能登子に激しく尾を振りながらロンがまとわりついて、其れは黒い瞳が可愛く輝き其の全身で能登子を歓迎しているかの様である。
京子はもう目の前にいた。
能登子は子どもの様に泣いて京子の胸の中に飛び込んで行った。    
   一頻り京子の胸の中で泣いてると何故か懐かしい香りが京子から臭ってるのに気がついた。何処で嗅いだ香りだろう。一緒に店に出ていた女の子のコロンだろうか。
京子も能登子の肩をさすりながら、幼い日に「ママ〜」と言って泣いて飛び込んで来た能登子を思い出していた。一瞬空を仰いで出て来そうになる涙を堪えた。その時能登子が
「すみません、私迷惑も考えないで出て来ちゃいました。」と京子に謝った。京子は能登子の顔を覗き込む様にしながら「迷惑なものですか、何も考えなくて良いのよ。」と笑顔で返すと「浩二ー、能登子さんの荷物あの部屋に運んで頂戴!」と玄関に向かって大声で浩二を呼んだ。「忙しいのではないですか?私1人で大丈夫ですから。」「何を言ってんだか〜。僕が運べばチョチョイノチョイ。」と玄関を飛び出して来た浩二が戯けて言った。「もう夕飯の支度に入るから、ね、早く入って、後でゆっくり話しを聞きたいわ。」と京子は能登子を急かした。
まるで娘を迎えたように其れは自然な態度である。能登子の緊張はスゥーっと軽くなっていた。家族の温もりを余り味わって来なかった能登子にとって其れは始めてと感じる暖かい経験である。
つい何日か前に失意の能登子は命を絶とうと此処を訪れ、其れをこの親子に助けて貰った。いや正式にはもうひとりいる。秋田犬のロンを忘れてはならない。ロンが居なかったら能登子は無残な骸となっていたのに違いなかった。永井の玄関を入った時ふっと家庭の匂いが能登子の鼻に飛び込んで来た。
   京子の所に能登子が来たのはもうクリスマスが目前の23日であった。クリスマスが過ぎると泊まり客の足が途絶える。
元々この辺りに泊まる客は点在する会社経営のゴルフ場や村が経営するゴルフ施設に来る人達が多いのだが華やいだ観光地とは違ってそう客数が有る訳ではなかった。後は年が明けてのゴルフ大会の客の予約は入ってるのだが、それまで民宿の客は無いだろう。民宿としての及川の1年のうちで一番落ち着く時期であった。
この日最後の泊まり客に能登子は京子を手伝って接待をした。さすがに客あしらいは慣れて居るから京子も大いに助かったのである。
派手な柄のパンツもエプロンで少し落ち着いて、化粧も洗い流して口紅をひいただけにすると、元々の瞳の美しさや眉の形が良いのが引き立って感じが良い。だからこの日泊まった5人の客の能登子へのウケは悪く無かった。素顔で受け入れて貰えている嬉しさを初めて味わった能登子である。其の後片づけと明日の朝食の仕込みを終えるともう12時を回っていた。此れから家族が風呂に入りホッとする時間である。浩二が先に風呂に消えた。京子はエプロンを外して壁に掛けるとココアを淹れてた。
「今日は助かったわ、能登子さんが居てくれて。」と言いながらカップを勧める。
何時もならこの時間には能登子は男と酒を呑んでいる事が多かった。だからココアである事が嬉しい。「頂きます。」と手を伸ばした。「能登子ちゃん。私貴女に話が有るの。」京子は意を決して話し出した。怖かった。あの話を能登子にするのは京子にすれば本当に怖かった。でも話しておかなければいけない。偶然に出会ってしまった以上、能登子が我が家に来た以上もう黙っては居られない事だった。能登子は顔を上げて京子を見つめた。
・はい・心配そうに答えた。其れでも此れから驚くような事を京子から聞くとは思わずにいる。だが僅かながら自分をちゃん付けで呼んだ事に小さな違和感を覚えてはいた。「飲みながら聞いてね。」と前置きをして京子は話し出した。
能登子ちゃんがまだやっと4歳になった頃の秋にね。私貴女を貴女のお母さんの実家に置いて家を出た女なの。」其の言葉は能登子には直ぐに理解は出来なかった。何を京子さんは言ってるの!私が4歳?な、何?頭がグルグル回った。・あ、あの其れって何の事?・声になら無い。京子にはやっと聞こえてはいたみたいである。
京子の瞳から涙が落ちる。「能登子ちゃんが2歳の頃から其の時まで私は貴女のママだったの。」其の言葉は能登子に衝撃を与えるに十分であった。・あ、あの匂いはママの匂い!・
瞬間に思い出した。「ま、まさかでしょ?!」
能登子は叫んだ。京子は静かに首を横に振った。「私も貴女の運転免許証見た時そう思ったの。」「でも此れは本当の事なのよ。能登子ちゃんが自殺するのに選んだ所が此処で、息子とロンが助けた何て、もう神様が仕組んだとしか思えなかった。」そう言いながら京子は自分の両腕を抱いた。眼を伏せながら話を続ける。
「貴女がお父さんと思っている人は貴女の養父なの。」初めて聞く事である。そう言えばさっき本当のお母さんの実家にと京子は言っていたなと思い出した。余りの事に言葉を失う。
じっと話を聞く事に能登子はした。
能登子の対面に腰を掛けると京子は話を続けた。すっかり覚悟している落ち着いた顔になっている。能登子はじっと其れを見つめた。
そして事の真実をすっかりと其の話から飲み込む事が出来た。今まで天涯孤独だと思っていた自分に、娘を捨てた本当の両親がいる。そして短い間だけど本当に可愛がってくれた人が目の前に座っている。此れまでの自分の生き方と重ね合わせて、其れは衝撃を与え、後から後から涙が流れて止まら無い。自分を捨てたと思っていたママは本当のお母さんでは無く其れも仕方なく手放した。其の事が理解出来た。ただ今自分がどうして良いのか分からない。ココアのカップを持ちながらテーブルに伏して泣きだしてしまった。「やはり私が引き取って来るべきだったの。」と京子も泣きながら言う。其れを聞いた能登子は顔を上げて首を振った。
「無理よ、其れは無理。ママが一人で生きてくだけで精一杯だもの。」能登子は幼い頃の自分と今こうしている自分が京子に助けて貰った現実がとても嬉しかった。俄かに信じられ無い事、そう起こる事ではない事が事実こうして起こっている。其の事が驚きの中で嬉しかった。
  だから精一杯そう気持ちに答えたのである。
「だから能登子ちゃん、今こそ私を本当のお母さんと思って甘えて頂戴。もう何処へも行かないで。」其の言葉に能登子は京子の手を取って泣いた。「ママ、ママなのね。私の。」京子は黙って泣きながら何度もうなづいた。
「あ、そう言う事なら親子でお風呂入れば〜」
いつの間にか浩二が風呂からあがって声をかけた。振り向くと笑って立っている。きっとこの事は既に京子から聞いて居たのに違い無い。ロンはキッチンの隅で寝ていたが浩二の声で頭を上げて、其の3人を眺めている。
   当座は助けて貰ったあの日に泊まった部屋が
能登子の部屋になった。少し気持ちが落ち着いて来ると、考えなければなら無い此れからの事が山積みになっている。年が明けたら動かなくてはなら無い。中野区役所に電話をかけて
転出届けのさいに其の付票発行停止処置を申告出来る事が分かった。だが転出届はやはり中野区役所まで出向かねばなら無いのだろう。
転入届はその後上九一色の役所に届けを出すのだが其の時に住民票を本人以外には見せたり発行を停止する事が出来るのも判明した。
一応其れで公平の前から能登子の形跡は無くなる。だが公平は新聞記者である。いつかは嗅ぎつけるかも知れない。一抹の不安は有るが其れは今は考えない事にした。
そして能登子の胸に去来する事はもう一つ有った。其れは京子の側には居たい。しかし何時までも甘えてはいけないと言う思いで有った。
自分が本当の母親だと思って来て、そして恨みの気持ちも有った京子は本当の母親では無かった。だが本当の母親よりも能登子を可愛がり引き取らなかった事を悔いている。能登子にはそんな京子が母親であるのは変わらない。だが現実には血の繋がっては無い人である。其の京子に依存して生きるのは能登子の意に反した事なので有った。
いずれ此処で職を得て独立しなければならない。またそうしなければ京子に申し訳無いと
考えた。女29歳、大人として自分を律しなければならない。そう考えたのである。
中野のマンションは不動産屋と相談して家具付きで売る事にした。売れたなら残りのローンを払っても幾らかは能登子の手に残るだろう。
公平に消えた金の事は綺麗サッパリと諦める事にしたので有る。此処から新しい能登子が始まる事になる。そう決めるとこの年の瀬を越え新年を京子の元で迎える事が嬉しくなってくるので有った。
其の激動と感動の年も明けて全ての手続きが済むとやっと能登子に安息の日が訪れていて及川の仕事を手伝居ながらあっと言う間に1月も後何日か残すのみとなっていた。仕事も見つかった。2月の初めから出勤する。其れは水商売しか知らない能登子に取って考えてもみなかった仕事である。新聞の求人欄に載っていた。
上九一色村役場での電話交換手である。
委託業者が掲載したもので有った。
資格は要らなく、歳の規準もクリアしていた。
難なく面接で決まったのである。役場で有るから週5日勤務であったし、土日、祝日は休みとなる。永井を出ても手伝いに通う事も出来ると能登子は当初考えた。だが永井を出る事は京子は頑として望まなかった。此処から通ってと能登子に懇願をしたのである。能登子は幸せであった。
京子の娘のようで有るから、其れが一番嬉しかった。もう何が有ってもこの家族と居れば怖く無いと心から思った。
夕方から少しの間雪が降ったので枯れた林がうっすらと雪化粧して街灯の下、墨絵の様に美しい。
空を見上げると下弦の白い月が冴え冴えと輝いている。其れを見つめる能登子の横に座る
ロンの黒い瞳にも其の白い月がウルウルと輝いていた。
   
           完了

後話し
公平はその後やはり能登子の前に現れたがロンに噛みつかれて東京に逃げ帰り、その後まも無く公平の自宅近くで暴漢に襲われ其の命を落とした。其の夜も白い月が瞬き、黒い瞳がじっと其れを見つめていたのかどうかは分からない事だが、其れは公平によって不幸に堕ちた被害者の家族による犯行とも、また政治的な陰の力が其処に働いたとも報道で騒がれたのである。だが其の全ては未だ不明のままで有る。



通りゆく時雲の流れに



  人間は過ちを犯す。其れは何時の世も同じである。過ちを犯しながら片方で善を施している。

罪を犯していると言う自覚に立った時自分を恥じ其れを補おうとする意識が芽生える。また、
逃避するか何れかなので有る。
罪は其の度合いに寄り、其の比重によって許される者と裁かれる者とに分かれるだけの事で、運良く許された者でも日常に於いて人間は知らず知らずの間に人を傷付け、奈落の底に追いやっているのが現実だ。大概の場合は其れと気がつく事も無く、平然と世の中を闊歩しているのが現状なのでは有るまいか。時と場合によっては、其の方が罪が重いと言う現実を知らなければならない。何らかの罪を背負う、其れが人間に於ける宿命なのかも知れない。
  これは罪と言う言葉に翻弄され人生の大きな時を失った1人の女の話である。
  泉川貞子は息を潜めるように下町の小さなマンションにひっそりと暮らしていた。
目立たぬ様に暗めの服を身に付け、化粧は口紅だけ、おかっぱに近いボブにして近くのスーパーの精肉部門で1日中肉を捌いて生計を立てている。39歳。若い時の華々しい世界にいた貞子からは想像もつかないその姿である。
かってはその歌唱力で人気を博したスターであった。
当時、ステージやテレビに出る時も移動の時も厚い化粧で有り、付き人さえもその素顔を見た事が無かった位だから素顔でいたら其の片鱗も無く、童顔の貞子のその前身を見破る者は皆無で有った。
だが、其の正体が分からない様に来る日も来る日も気をつけて、貞子に取っては胃の痛む様な日々が既に7年もの間続いていたのである。
  貞子が其の歌唱力で脚光を浴び、芸能界に
デビューしたのは遅咲きの20歳の半ばを過ぎた頃で有った。個性のある魅力的な声で歌うバラードは聞く者の胸を打った。芸能プロダクションからオファーが有った時、貞子は迷った。
歌を歌う事は大好きで有った。其れを職業にする事は若い時からの夢で今現実となったのだから心は揺れた。貞子には其れを躊躇せざるを得ない決定的な理由が有ったのであったが、
其の危険を押しても歌い手に成りたいとの気持ちが勝ってしまった結果陽のあたる場所に立った。
  自分の背負った罪の深さが逃げても逃げても
追いかけて来るから。だが、歌手ととしての道でも、もしかしたらカモフラージュして歌って行けるのでは無いかと、その認識の甘さから芸能界に身を置いたのである。だが中学時代のクラスメートからのファンレターが届いて貞子は慄いた。結局今の栄光も諦めなければならない結果となってしまった。当時、男と逃げたのではないかと誠しやかな週刊誌の記事となって少しの間世間を騒がせていた。其れもじきに収まりを見せ、今は話題に上る事もすっかり無くなっている。法的な裁きに於いては貞子に罪は無かった。が、其れと知らずに縛られていて、赦される事の無い其の罪に世間の表舞台に出る事が絶対出来ない状況が身に染みて今の様に都会の隅っこでひっそりと隠れて暮らして居るので有る。
  其の生活は、いつあの歌手でタレントの
武蔵川ヒカルと悟られてしまうかとビクビクしながらで有ったから、極力飲み会やカラオケなど誘われても行かない様にしていた。
そんな生活の中で貞子の体重は10キロ近くも減って、其のせいもあり今のところヒカルで有る事は分かる事は無かった
   「泉川さん。」不意にチーフの渡辺信一に声をかけられた。昼休みの事である。
群れから外れ1人テーブルでの食事中だ。
「ご飯食べてる時悪いけど、ちょっといい?」
と言われた。信一から仕事の指示は日頃受けていたが、面と向かって話しかけられたのは初めての事である。一瞬心が用心した。
「はい、」仕方なく言うと、「今度、一度外で会いたいのだけど、どうだろう?」と聞いてきたのである。貞子は信一の胸の内を探った。
会いたい、其の真意は何んなのだろう?
どちらにしても2人で会うのは避けたかった。
だから黙っていると、「もう直ぐ君の誕生日だよね。其れを機会にして会いたいのだけど。」
其れは貞子を好きだと言っている様に聞こえたのである。「あ、でも私・・」躊躇して狼狽した。信一が独身で有るのは知っていた。
しかし彼は諦めなかった。「今夜電話入れるから考えて置いてね。」貞子は其のやり取りを周りが気づいて無い事に安堵した。
   約束通りに其の夜信一からの着信が有った。
お風呂に入っている時は素の自分に戻れる唯一の時間。
華やかな時代の自分の持ち歌を口ずさんでいる。貞子の相変わらずの魅力的な声が小さな風呂場に木霊する。唯一自分に戻れる其の風呂からあがると携帯が鳴ってブルブルとコタツの上で振動している。信一からだ。そう思うと気が重い。
   「はい、泉川です。」仕方無く応答した。
「あ、寝ていたかと思ったよ。遅いから、」
話しながら信一が笑っているのが分かる。明るくて優しい声だ。「君は何か隠してるのと違うの?」突然の核心を突く言葉に息がつまる。
「い、いえ別に。」しどろもどろに応えた。
「お願いだから僕には心を開いてよ。」信一からの懇願である。頑なな貞子の毎日を不思議と思うのは当然かも知れなかった。
「ね。会ってくれない?」其の気持ちは本当かもと貞子は感じた。「ええ、」うっかりと了承したかの様に言ってしまった。信一の嬉しそうな言葉が間髪入れず返って来た。「本当?!本当に?明日の夜どうかなぁ?」もう観念しなければならないだろう。貞子は其れを飲むしか無かった。信一は45歳。バツイチ男である。
 スーパーでの仕事は社員並みの夜8時迄で有った。信一も同じで有ったから一足先に貞子は店を出て花小金井駅前の喫茶店で信一を待った。
チーフとしての仕事が信一には残って居るからその間15分位は待つ事になるだろうと観念していた。だが、30分待っても信一は姿を見せない。・やはりからかったんだ、そうだよ、私なんか相手にする筈も無いわね。帰ろう・と席を立った時だった。見知らぬ男をと連れだって信一は来たのである。「待たせちゃってごめん。この方と待ち合わせたもんだから。」と其の男を見て言った。丁度還暦位の身体付きがしっかりした男である。何処か目付きがするどかった。軽く頭を下げてはみたものの貞子は其の男を用心して立ち去りたかった。
「すみません。泉川さん、いえ、上野さんかな?其れともヒカルさん?」貞子はビクッとして身体が硬くなった。
・何故本名を知ってるのだろう?ヒカルも?・貞子は恐れた。「いえ泉川です。」冷静さを取り繕ってそう応えた。「あ、申し遅れました。私は練馬署で以前捜査員をしていた小暮と言います。今は退職して探偵事務所を経営してるんですよ。この信一君とはお兄さんと幼馴染なんです。」
貞子は練馬と聞いて尚更驚き、ああ、もうダメだ、とうとう来るべき時が来たと観念し、信一の顔を見た。「ごめんね、僕は泉川さんの事好きで、興味が有ったから、つい履歴書を見てしまったんだ。そしたら上野絵梨子って。」貞子はもう黙って座っているしか無い。
「何故偽名で働いてんだろ?って不思議になってね、君の事良く観察していたんだ。」
「毎日君を見てるとね、目立た無い様に振舞って居るんじゃ無いか、そう思えて来てね。」
履歴書は其の時の店長と次長に父親の借金で追われて居るので、偽名で働かせてと、頼み込んで雇って貰ったものだ。二人とも律儀で誰にも其の事を話さないまま転勤で花小金井店から出たのである。。一回ロッカーに整理されると履歴書を見る事は早々無い事で有ったから、真逆信一が其れを見るなど思っても無い事だった。
貞子の肩が緊張で上がっている。
其の時店員がオーダーを取りに来た。
貞子がホット珈琲を飲んでいたから2人は同じ物をオーダーした。
「其の話を信一君から聞いてね、軽い気持ちで調べてみるかとなってね、泉川さんの写真を信一君から見せて貰ったんだ。」信一の言葉を次ぐ様に小暮が話し始めた。この初老の探偵はもう何もかも調べあげたのに違い無い、といよいよ貞子は観念した。

   思い返してみるともうあれから27年が経過している。貞子の母は貞子の父を病気で亡くし、貞子を連れて上野雅夫の元へ後妻に入った。貞子が12歳の時である。
だが元々身体が弱かった母、貴美恵は貞子が高校に入学した直後腎臓を悪くしてしまった。
其れから約1年、貴美恵は入退院を繰り返し
貞子が16歳の誕生日を迎える年の寒い朝帰らぬ人となった。貞子改めて絵梨子は養父の忠夫のところに独り残されてしまったのてある。
其の頃忠夫は未だ40を少し過ぎたばかりで有った。しかし自分の子の様に絵里子を可愛がってくれては居たのである。だが妻に2度も先立たれ気持ちが落ちていたのであるのか、その年の夏休みに入った盆踊りの有った深夜絵梨子の寝室に入って来て寝ていた絵梨子にいきなり抱きついたのである。「お、お父さん、どうしたの!」叫ぶ絵梨子の声を無視してパジャマのズボンを脱がそうと喘ぐ。絵梨子は夢中で手で払いのけた。
ふらついた忠夫は仰け反りベッドの反対側に頭をぶつけて倒れた。絵梨子は気が動転した。
忠夫は倒れたまま動かない。死んだと思った。
どう動いたのか今考えても分からないが、着替えて当座要るものを持ち家を飛び出した、
財布の中にはアルバイトで得た給金が多少であるが手付けず入っている。家から高田の馬場までタクシーで走り、深夜の電車に飛び乗り西武新宿駅まで逃げた。事の真相が発覚する迄にはまだ少しの時間は有るだろう。
JRの新宿駅まで歩きながら絵梨子は巡る巡る頭を働かせた。・どうしたらいいの、お父さんを殺してしまった。部屋はあのまま、私の犯行は時期に分かってしまう。隠れなきゃ、何処か遠くに行ってしまおうか、・眠らない街新宿の其の人の通りを眺めてると、植え込みの柵に腰掛けている自分が実に情けなく惨めで怖くて涙がポツポツと溢れて来た。殺してしまった忠夫に対する罪の重さが押し寄せる。貴美恵の事、学校の事など次々に頭を過る。こんな事で昌おばちゃんにも頼れない。元より親戚は貴美恵の妹の其の昌しかいない。
そんな絵梨子に一人の男が声をかけて来た。
深夜に独りで泣いてる若い女は其の男の格好なカモで有ったのだ。其の夜抵抗も虚しく絵梨子はその男に身体を奪われてしまった。
そうなってしまえば貞子の年齢の娘は苦も無く男の言いなりになるしか無かった。
  次の日から絵梨子は如何わしいパブで働き始めたのである。男は其の店のバーテンで有った。
未成年者に化粧して派手な服を着させ客を接待させる。この店から絵梨子の事は漏れない。
嫌だけど働けばお金に不自由する事も無い。
其の時の絵梨子には都合の良い事でも有った。
勿論、怖さが有ったが隠れるのには丁度良い温度の場所で有ったから怖さに其れが勝ち裏の社会に身を置いたのである。あれから2日が過ぎた。流石に忠夫の事が気にかかり始めた。
 新聞を買って見てみた。一面の裏に其れは乗っていた。
練馬区関町のアパートで上野忠夫さんの死体が見つかる。】本日午前11時頃新聞の集金人からの110番の通報で練馬区関町3-3-2 金村荘 203号室から死後2日から3日の借り主の上野忠夫さんの遺体が見つかり現場に同居の長女上野絵梨子さんの姿が無く鍵も掛けて無かった事から、絵梨子さんが何らかの事情を知っていると見て練馬警察署が捜索を始めた。
尚上野忠夫さんの死因についても調べを始めている。・と言うもので有った。
其れから毎日その後の事件の進展を気にかけて来たのだが今日まで見逃したのかも知れないのだが其の事の報道は無く、また捜査の手も絵梨子に届く事も無かったのである。
目の前にいるこの探偵は何処まで調べたのか、今絵梨子は針のムシロに座らされている、そんな気持ちで木暮の言葉をじっと待っていた。
  「実は24年前に、まだ私が練馬署にいたときに、こんな事案があったんですよ。」
絵梨子はぐっと身体に力が入る。・やはり・
「まだその年の夏に入って間も無い暑い日にね。上野忠夫さんが死後2日経って発見されたんです。」「当時彼はなさぬ仲の長女絵梨子さんと同居してましてね、失踪してましたから当然被疑者として捜索したのですが、忠夫さんは仰向けに倒れて壁に頭をぶつけてました。嘔吐もね。で、警視庁が詳しく死因を調べました。絵梨子さんの寝室でしたし、急いで出た形跡も有りました。鍵もかけては無かったですから。ま、練馬署でも事件性は薄いとの判断はしていてのです。」「死因は倒れる前に有りましたよ。クモ膜下です。脳幹がやられてまして即死状態で倒れた訳です。」絵梨子は小暮を凝視した。其の胸は激しく打ち始めた。
其れでも何も言わず待った。
「其の現状から絵梨子さんは忠夫さんに無体な事をされて、払いのけたりして倒れて動かなくなった忠夫さんに驚き逃げたのだろうとの見解になったんですよ。」小暮は此処から急に言葉が優しくなった。「寧ろ、ね、まだ16歳のお嬢さんの方が被害者だったんです。どうです?この辺りで本当の事を教えてくれ無いかな?
あなたが絵梨子さんであれば、私も貴女のおばさん昌さんのこれまでの苦労も消えるんです。」昌おばちゃんの話が出て絵梨子は感情を抑える事が限界になってしまった。小暮の話が誘導尋問で有ったとしても、もう隠している事は辛過ぎたのである。意を決してポツリポツリと話し始めた。「本当、に」其れを聞いて2人は同時にうなづいた。待っていたので在ろう。
「申し分け有りません。上野絵梨子です。」
やはり!と小暮はガッツポーズを取った。
「実は、絵梨子さんは殺人を犯してしまったと思い込んでる節が有りました。ぱったりと消息が無くなり、おばさんの昌さんが心配されて、当時私に捜索を依頼されて来たんです。私も事実を知ら無い貴女が気の毒で暫くの間は許可を得て捜索したんです。新宿のパブにいた事は判明しました。其の時の写真からその後の歌手の武蔵川ヒカルさんでは無いかと、そこまでは何とか合間に調べて分かってはいました。でもその後あの失踪事件からぱったりと足が取れなくなってね。やはりヒカルさんでしょ?」この小暮と昌おばさんが心配して捜してくれていた。其の事実は張り詰めてていた絵梨子の心の壁を外した。周りの眼を気にする事も無く顔を手で覆い声をあげて泣いた。其れを2人も止め無いで見ている。信一の瞼も濡れている。
泣きながらも「お父さんは本当に倒れる前に死んだんですね?」としゃくりあげるように話すと、小暮は絵梨子の肩に手を置き、「そうだよ、くも膜下、其れは間違い無い事だよ。長い間絵梨子さん、大変キツイ思いをしてしまったね。どうして昌さんだけにでも連絡をしなかったの?」
と聞く労う其の声はあくまでも優しい。
「あの日、タクシーで必死に高田馬場まで出たの。新宿の駅で男に声をかけられて、私其れが嫌でお父さんを殺したのに、其の男に其の夜犯されました。そしてあのパブで働かされてました。時には客を取らされたり、そんな自分と、殺人の罪が怖くて、私誰にも連絡出来なかったんです。」小暮の顔は曇った。「そうだろな〜。」「で、どうして芸能界に?」と其の問いに「パブで客と歌っていて其の歌唱力をたまたま来ていた芸能プロダクションの人か聴いていたんです。歌手として挑戦してみ無いかと言われました。
其の頃になると其のパブの古株になっていて、
男からの縛りも無くなってたし、元々憧れてたものだから。でも罪は私に憑いて離れませんでした。中学生の時の友達からファンレターが来たんです。素性が表に出てしまうんでは無いかと、私歌からも逃げて、其れからは逃げて、隠して、とてもとても長かった。」また涙がポツリと落ちた。信一はじっと聞いている。
「実はね、信一君から絵梨子さんの事で相談されてね、経験上写真を貰ったんだよ。今の絵梨子さんの。」「パブの時代、歌手の時代、其れと並べて見てるとね。骨格が似てる。これは俺が探し求めてる上野絵梨子さんでは無いかと胸が踊りましたよ。
得に前の二枚はね似てる化粧をしてるから同一人物だと確信していた。で今の絵梨子さんの写真に化粧を合成して見たら、痩せてはいるけど似ていたんだ。で合わせてくれるようにして貰ったんだよ。ほら。」とテーブルに絵梨子の方に向けて3枚の自分の写真を並べた。3枚とも絵梨子其のものであった。
絵梨子は疑問に思っている事を小暮に聞いた。「あの、小暮さん。今は探偵をされてると伺いましたけど、何故刑事を辞めたのですか?もしかして私の事に関わり過ぎて、」遮るように小暮が否定した。「いや、関係無いよ。刑事に嫌気がさしただけですよ。」そして立ち上がると信一を見て「いやぁ、信一君の機転で絵梨子さんに本当の事を言ってあげる事出来て良かったよ。なら今夜はこれで。」と立ち去ろうとした。絵梨子は尚も言った。「本当に、私のせいでは?」小暮は振り向かずに手を振って、否定しながら「昌さんに連絡をね。元気でな。」と言って店の隅に設置されているピアノ席の奏者に何か話していたが、その後一度も2人を見る事も無く店を出て行く。信一はボソッと言った。「かっこいい人だなぁー、君に真相を言う事にずっと拘っていたんだ彼。」絵梨子はそのかっこ良すぎる男の後ろ姿が見えなくなる迄凝視していた。涙で揺れながら消えて行く。
その時、店のアナウンスが響いた。「今夜はバラードの女王、武蔵川ヒカルさんが来店されてます。お客様からご指名が有りました。【通りゆく時雲の流れに】をお願いしたいと思います。武蔵川ヒカルさんを温かい拍手でお迎えしましょう。」小暮が耳打ちした事である。静かな店の中はヒカルと聞いてざわつき拍手をしている。信一はピアノのそばにと絵梨子を促した。躊躇してる間に前奏を奏者が引き出している。絵梨子の足は其れを聞いて自然にピアノの前に出た。懐かしい曲、今夜はお風呂では無く、隠す事も無く唄える。緊張もしてるけど嬉しい。
小さな喫茶店に小さなコンサート。絵梨子は懸命に歌い出した。その歌声はどんなステージよりも美しく、居合わせた客の胸を揺さぶる声。
歌い終えて頭を下げる絵梨子はこの時本当に長い間の隠遁生活が終わりを告げた事を強く強く感じていた。絵梨子を賛嘆する拍手が鳴り響いている。再度お辞儀をして絵梨子は信一の元へ。信一は絵梨子の顔をじっと見ていた。
まだ店の中のざわつきは収まりを知らなかった。。「泉川さん。あ、絵梨子さん。これからは歌手に戻るの?」
と聞いた。其れほど絵梨子の歌が素晴らしかったからである。絵梨子は頭を振った。
「もう、あの世界には帰らないわ、だって、チーフのそばで働いていたいもの。」信一はにんまりと笑った。「またまたぁー、嬉しがらせて、このー。」とふざける。「あら、冗談では無いのよ。本当だってばー。」と返した。
信一は真顔になった。「嬉しいなぁ。だけど、これからが大変かもだよ。ホラ、リポーターとかがドサッと来たりして。」そうかも知れなかった。でもそんな事どうでも良かった。絵梨子はすぐ目の前にある小さな幸せがとても大切である事を、罪を背負って失った24年の月日を暮らした中で習得していたのである。「ね、お腹空かない?何処かでラーメンでもどう?」と信一に聞くと、「空いた、空いた、行こう。」と笑った。
喫茶店から出て歩きながら2人は話す。
「渡辺チーフ、もしリポーター詰めかけたら助けてくれる?」「其れはどうだろなぁー、ほっとく!」と。絵梨子の顔を覗いて高らかに笑った。絵梨子も心の底から笑う。其の笑い声は深夜の駅前通りに木霊していた。嬉しそうに。楽しそうに。
其処には、通りゆく時雲の流れの果てに
罪に慄き息を殺して生きて来た孤独な女の影はもう何処にも見当たらなかった。
     終わり





タクシーの男と犬



    土砂降りの雨になった。

どの位車を走らせたのだろう。
夢中で運転して来た麻由は自分に起きた悲しみと罪の深さに今更ながら慄いて絶望感でいっぱいになった気持ち抱えて真夜中の甲州街道を走らせ今もう少しで東京の外れにある奥多摩湖に着く少し手前迄来ていた。
目の前が見えない位の土砂降りに山を貫くトンネルに入ると疲れて思わず左に寄せて停車した。行く手に見えるトンネルの出口が幾分か明るく見える。
朝が明けて来たのかも知れない。
だが今の麻由にはそんな事はどうでも良い事だった。ハンドルを強く握って其処に顔を埋めて震えた。その胸の内に自分が起こしてしまった罪の深さと、裏切られた憎しみと其れが渦巻いている。もう生きる意味も希望も持ってはいない。そうやって暫くじっとしていると出口は僅かながら明るさが増している。無気力のまま発信してトンネルを抜けると雨で霞んで曇ってはいたが左に最大の人口湖の奥多摩湖が左手に、其の周りに緑の山々が連なっているのが目に飛び込んで来た。だが何の感動もない。麻由にとってここは人生を締めくくる場所でしかない。
土砂降りだった雨は朝が明けるのと同時に
弱い降り方となっていた。
奥多摩湖を望むその薄暗い敷地に入るとそんなに広くない駐車場が見えて来た。其処に車を停めて麻由は外に出た。明けたばかりのこの時間、まだ誰も居ない。歩く先には奥多摩湖を望む公園になっている。奥多摩湖に向かって麻由はどんどん歩いた。人が居ないのはこれから麻由がする事には都合が良い。其処に躊躇など無かった。奥多摩湖は霞がかかって遠くに水量を管理してるのだろう白い建て物がぼんやり見えている。覗いて下を見ると大きな湖に小さなさざ波がたっていて其れはあたかも自分を其処に引き込みたがってみえた。
麻由は目の前の柵に手をかけると其れを跨ごうと足を上げた。両手に力を込め体が湖に近づく。・ああ、これで、全て終わる・そう思い、更に身体を乗り出した。その時だ、フッと暖かな腕が麻由を後ろから抱き抱えた。一瞬の事だった。誰かが麻由を止めたのである。其の瞬間頭の中に首を絞めた勉のあの苦しそうな顔が浮かび強く湖に其れが尚も誘う。だからもがいた。其の時掴かんでいる其の腕に強く後ろに引かれ麻由は其の主と共に堕ちて倒れた。
起こされて其の手が麻由の頬を強く叩く。
涙で潤みながら夢中で叫んだ。顔は見えない。男性だとは分かる。「お願い!死なせて!死なせて!」其の男も叫んだ。「駄目だ!死んでどうする!君の罪が其れで消えるのか!」麻由はビクッとした。其の男の顔が見えた。初老のシワのある厳しそうで優しそうな顔立ち。其の男の目からも涙が溢れている。麻由はもう動く事が出来ない。其の男から感じる不思議な力に縛られた様で有った。男の眼が優しく麻由を見つめる。「雨で濡れてるじゃ無いが、車に戻ろう。僕の車に温かい珈琲も有るから。」麻由は言う事を聞かずに居られない状況になっていた。
抱えられて車を見ると雨に打たれながら停まっているベビーイエローの麻由の車の左に黒いタクシーが停まっている。麻由は其の車の助手席に座らされた。後部座席に茶色のロングコートのチワワが寝ている。タクシーに犬?乱れた麻由の脳裏にそう一瞬焼きついた。其れには知らん顔をして男はドアーを開けたまま麻由の前のダッシュボードを開け其処からタオルを出して其の男が麻由に渡した。「風邪ひくから良く吹いて。」とそう言うとドアを閉めて運転席に回り座った。そして黙ってコーヒーのポットを麻由に渡した。タオルを其の男に渡した。男も頭を吹いている。今なら飛び出せる、そう麻由は心で思っているが何かがそうさせない。黙ってポットの蓋を開けるとコーヒーを注いだ。湯気がたっている。男にポットを渡すと中蓋に自分の分も入れて飲んでいる。麻由も一口、口にした。
「美味しいか?温かいだろ?」麻由は黙ってうなづいた。もう死ぬ気が失せて居るのに気がついた。温かな涙が伝う。
「君のした事は時を経て必ず償う事が出来るんだよ。でも死んでしまったら人として其れも出来なくなるし、君だって浮かばれることなんて無いんだ。生きてればこそ償えるし、いつか君も輝ける時が来るんだから、もう馬鹿な事はするな。」男は麻由に諭しながら自分に話してる様に淡々と話した。不思議な感じがこの男からする。タクシーの運転手に化けた刑事だろうか。若しかしたら手錠をかけられるかも知れない。そう麻由は考えたが、其れなら其れでももういい。と、既に犯した罪を償う気持ちになっていた。「有りがとうございました。」と寸でのところを助けて貰ったお礼を言うと「何が有ったの?良かったらおじさんに話してみたいか?」と言う。少し落ち着いた麻由はタクシー会社の完成タクシーという名前とその運転手の名前の札を見た。後藤達也 と書いてある。
麻由はポツポツと話し出した。
其れは口に出すのも辛い事だったが後藤には何故か話さなければいけない、そんな気持ちなっていた。言葉は素直に出て来た。「後藤さん、で良いですか。?」
男は麻由の顔を見て優しそうにうなづいた。
・後藤さん、私、小川麻由と言います。
実は夕べ、同棲してた彼、彼の首を絞めてしまいました。・男は顔色も変えず聞いている。・
始めの頃は楽しかったんです。そのうち彼余り仕事しなくなって家に帰らなくなる事増えていきました。薄々感じては居たんです。他に女がいる事。私だけが働く様になってました。漸く貯めたお金も彼持ち出していく様になり、ある日私彼をつけました。・「刑事みたいだね。」と後藤は言った。
・ええ、そんな風に。そしたら彼、ためらわずにモーテルには入っていったの。・
「要するに女とだね。」・ええ、私車の中で待ちました。暫くしたら2人で出て来て車に乗ったの。驚きました。相手、私の妹だった。・
「ショックだったね。其れは。」・はい、もう何が何だか分からなくて、其れが昨日の事でした。もうつける気も無くて、私家に戻りました。そしたら遅くなって彼、平気で帰って来たんです。そして自分の荷物まとめ始めました。
私彼にお別れのお酒を勧めました。理由なんてどうでも良いの。さっき見た事で全て知ってましたから。彼はお酒弱くて直ぐ寝てしまうの分かってました。車運転するからと言っていたけど、一緒に暮らした2人の別れの時だからと
無理に進めて飲ましました。彼やはり寝てしまいました。最初は彼を行かせたくなかっただけたったんです。だけど、だけど寝顔見てたら私情無くなって、彼に怒りを感じて、気がついたら首を閉めてしまっていて・其処まで話すと涙が溢れ身体も震えて、もう何も話せなくなっていた。
今。この人に逮捕されると覚悟をしていた。
「そうか、きつい思いをしたのだね。麻由さんは。で、彼が死んだの確かめたの。?」と言う、「いいえ、もう夢中で家を出て来ました。」後藤は思いがけない事を言った。
「そしたらもしかして亡くなって無いかも知れないね。」「え、?」「だって麻由さんは細いし、死んだとは限らないでしょ?」「・」
「其れに、確かめてからでも良いじゃ無いか、自首するのも死ぬのもね。」麻由は後藤の言う事で、本当にそうだと気がついた。
「何処から来たの?」「木更津からです。」
「そうか、仕事は?」「黙って出て来ましたから。」「ん、まだ早いからね、電話して休むと連絡しておいた方が良いね。」素直にうなづいた。「そして辛いけど戻って確かめてみたら?」麻由はそうしようと思った。
「はい、戻ります。後藤さん。何処かで朝ご飯どうですか?」助けてくれたせめてものお礼がしたかった。「そうしたいんだけどね、客を拾って仕事しないと、会社からお目玉食うのでね。君も大丈夫そうだからここでね。」麻由は有難かった。今の時間、何故後藤か此処に居たのかもう其れはどうでも良い。神仏が引き合わせてくれたのかも知れない。と麻由は感謝した。「本当に、本当に、なんて言ってお礼を言ったら、後藤さん有りがとう。私、どんな事有ってももう大丈夫です。」後藤は嬉しそうに何回もうなづいた。麻由は握っていたポットの蓋を後藤に渡すと車から降りた。後藤に向かって深々とお辞儀をした。其の間、後藤は嬉しそうに微笑んでいた。自分の車に戻り、エンジンをかけてギアーを入れてふと後藤の車を見た。無い。既に其処に車が無いのである。発信する音は聞こえなかった。暫く啞然としていたが、気が付かないうちに車を出したのだろうと思い返して麻由はアクセルを踏んだ。
いつの間にか雨も止んでいた。
霞が消えて周りの山々が今まで降った雨にキラ今、火曜日の朝 6時半になろうとしていた。
夕べ出た時は心が乱れていて死ぬ事だけ必死に思い夢中で車を走らせた。今其の思いがポロっと落ちて人として取るべき道を選んでの帰り道、何と其の遠い事か。途中渋滞に巻き込まれたりガソリンを給油したり休憩を取ったりして昨日からの疲れも手伝い、木更津の街に入った時にはもう身体はどうしょうも無いくらいに疲れていた。奥多摩を出てから実に7時間も車を運転していたのである。
見慣れた我が家の近くまで来ると既に足も腰も背中も痛く無い所が無い位になっていたのだ。
この辺りは何事も起こって無い様だ。
マンションのエントランスを歩いている時、改めて部屋に入る恐怖が蘇って来た。でもこの街では何かあれば直ぐに大騒ぎになる。其れが殺人ともなれば尚更の事だ。だが何も変化は外にもこのマンションからも感じられ無い。いつもと同じだ。二階の自分の部屋のドアーの鍵を恐る恐る開ける。鍵はかかっていた。実は鍵をして出かけたかどうなのかはっきりとは覚えていなかったのだ。ドアーを開けて彼の無事を直ぐに知る事になった。足元に新聞受けから投げ入れたであろう勉の合鍵が玄関に落ちて居るのを見たからである。リビングに入ると夕べ飲んで散らかしたままになっていた。
テーブルに置かれた花瓶の花が少し萎れている。其の下に、勉が書き殴った置き手紙が有った。[目が覚めたら麻由が出かけていないから黙って出ていく。タンスの引き出しから2万円借りていく。今まで有りがとう。金はいつか返す。気持ちは分かるが痛かったぞ。]見慣れてはいたのだが下手な字で読むに大変だ。しかし彼が無事でいた事に麻由は心からホッとし感謝した。彼らしい。彼が使ったお金は今回のも含めて戻らないだろう。だが彼の少しの遠慮が見えた気がした。タンスには五万円入れて有ったのだ。今までの勉なら全額持って行っただろう。調べてみたがちゃんと3万円は残っていたのである。
この手紙の文面から麻由が真実を知ってしまった事に気付いていた様子が伺えた。
モーテルの前で待っていたのを見たのでは無かろうか。車の色が目立つベビーイエローだ。これで彼が戻らない事が確実になったという事だ。勉の残して行った合鍵をまじまじと見つめて涙が頬を伝う。
悲しいからなのか、安心したからの涙か麻由にもはっきりとは分からなかった。
ただ分かっている事は殺人をしなくて済んだという事である。後藤の、確かめてみれば、との言葉が蘇って来た。
・後藤さん、私、罪を犯さずに済みました。命を助けて貰って本当に有りがとう。何度も繰り返し心の中で言った。私が本当の幸せを掴んだ時絶対にお礼をしたい。硬くそう心に刻むので有った。
 其れから2年が過ぎた。
この秋麻由は会社の同僚と結婚する。
穏やかで優しい男である。決してイケメンではないが誠実な人柄である。麻由は26歳になっていた。勉と妹の仲は半年余りで駄目になったようだ。其の妹は来春他の男に嫁ぐ。
   日曜日の朝、麻由は後藤に連絡を取ろうと104番に電話番号を問い合わせた。
奥多摩辺りだと思いますが完成タクシーの電話番号をお願いします。」奥多摩ではタクシーの会社は何件も無く、簡単に番号は判明した。
直ぐにかけてみた。
「はい、完成タクシーです。」「あ、私木更津市の小川と言いますが、其方の運転手さんの後藤達也さんはお仕事中でしょうか?」「え、後藤ですか?」「はい、60歳少し前位の。」
「其の様な従業員は今居ないのですが。」
少し慌てた様な感じで答えが返って来た。
あれから2年が経過している。後藤はタクシーの運転手を辞めてしまったのであろうか。
「そうですか?もういらっしゃらないのですね。」「あ、はい。だいぶ前からですが。」
「忙しい所有りがとうございました。」仕方なく麻由は電話を切った。私に会って間も無く退社したのね。残念だけど仕方無い。
そう麻由は考えて其れからは後藤を探す事は諦めていたのである。
  其れからまた3年が経った。麻由は夫の半田雅夫と1人娘の真子8ヶ月と雅夫の転勤先の東京の武蔵野市の仲町に移り住んでいた。
変わらずに雅夫は優しく、真子は眼の中に入れても痛く無いほど可愛い。幸せな日々である。
  真子が産まれてから麻由は専業主婦となっていた。雅夫を送り出して真子と食事をし、掃除や洗濯が済むと大体10時頃になる。この日も
丁度10時に手が空いた。何気なしにテレビをつけるとニュースが流れている。
麻由はバナナを少し潰して真子の口に運んでいた。「真子、はい、あーんして。美味しい?」
と聞くと真子は嬉しそうにウンウンと言う。
もう一度スプーンに取って真子の口に入れようとした時「次のニュースですが、奥多摩のタクシー運転手の後藤さん当時58歳の失踪事件に8年振りに進展が有りました。」え、!っとテレビを見つめると其処にはあの奥多摩湖の想像を絶する画像に切り替わり、現地で、リポーターが説明をし出した。テロップに8年前に失踪したまま行方不明の後藤達也さんの使用していたタクシーが奥多摩湖から引き上げを開始。と出ていた。麻由は釘付けになった。リポーターの話しを聞くと、8年前に後藤達也は自殺をほのめかす手紙をタクシー会社社長に送りそのまま失踪していた。勿論警察に届け捜索をしたものの、飼っていた犬もタクシーも勿論本人も要として見つから無かった。其れが昨日湖の水位が下がりナンバープレートのような物が目視出来ると観光に来ていた老人が管理事務所に言って大騒ぎになったのである。ダイバーが潜って見て沈んでいる完成タクシーの発見となったのであった。
引き上げて中に果たして人がいるのか待たれるところだとリポーターは話している。麻由は息を飲み込んだ。其のタクシーを引き上げている現場は5年前、自ら飛びこもうとした、あの場所に違いなかったからである。テレビを息も出来ずに見ている麻由。真子がバナナを要求しても動けない。だが、また進展が有ったらお知らせしますと其のニュースは終えた。
まさか、あの後藤さんで有ろうか。タクシー会社の名も運転手の名もまさに麻由が助けて貰った後藤さんと同じだ。だけれどもタクシーごと消えたのは8年前と報道されていた。
麻由の身体は抑えても震えて止まらない。
何故、何故との思いが廻る。とうとう真子が泣き出した。我に返って其の口にバナナを運ぶ。
しかし気持ちは動揺していた。真実の報道が待たれる。しかし夕方になっても次の其のニュースは無い。気もそぞろなのだが主婦の仕事は休めない。夕食の支度をして雅夫が帰宅し食事をしてると7時のニュースが始まった。政治の事や渋谷で起きた不差別殺傷事件が先にされて
次のニュースだった。奥多摩湖から引き上げたタクシーから白骨化された人骨と小さな犬の白骨が出て来た、警察では後藤達也さんと愛犬のチワワ、と見て詳しく分析をすると報道されたので有る。夫と我が子の前で麻由はもう冷静ではいられなかった。顔が青ざめ涙も止まらない。雅夫はさっきから箸を止めて様子を見ていたが、「このタクシーの人骨、麻由が以前言っていた、助けてくれた人なのか?」と聞いてきた。雅夫に隠し事は嫌で有ったから全て話して有ったものだ。・そうかも知れないの、いえ、絶対にあの後藤さん・と力無く言うと後は何も言えなくなってしまった。元気な頃の後藤の顔写真が映った。心臓が止まるかとの思いだ。
間違いない、あの、あの日の後藤さん本人の顔が其処に有った。夫に向かって言った。「後藤さんが行方不明になったのは8年前。でも私が助けて貰ったのは5年前なの。」まだ震えている。夫は「3年間何処かに隠れていたとは考えづらいよなぁ。」其れはタクシーごと3年間も隠くれ通すなんて無理な話しである。其れならあの日の後藤さんは一体。麻由はフッと思い出した。
帰ろうと決めて車の操作をしてタクシーを見た時にはもう無かった。音もしなかった。そんな短い間に走り去って、其れを気づかないなんて
有り得ない。あのタクシーはもともと無かったのかも知れ無い、助けてくれるため後藤が見せた幻覚。でもだが抱えてくれたあの腕の温もりや、励ましてくれた声やあのコーヒーの温かさは現実の事としか思えない。麻由はもっと真相が知りたい。と、深くそう思った。
雅夫が真顔で話し始めた。
「後藤さんは仕事や色んな事で悩み自ら湖に沈んだのだろうな。そしてあの日麻由を助け無くてはならない衝動で出て来てくれたのだろう。
俺は麻由が感謝の気持ち忘れないでこれからも生きてくのが後藤さんの1番嬉しい事何だと思うよ。」「3年間も寝ていたのに出て来てくれたんだからね。不思議な事だけど。第一誰も本気にしないだろう。」
雅夫が言う事は全く其の通りなことだった。
死を選んで湖に沈んだ彼がその無意味を悟って、命を捨てようとしている麻由を救った。
真実をもっと追求するのは無意味な事だ。
自分に出来る事は後藤さんの意を汲んで、これからも幸せに生きていく事だろう。其れが後藤さんの供養になる。
不思議な事だが其れで良いのだろう。誰が信用しなくてもあの日の後藤さんは確かに私を助けてくれた。其の真実だけで充分な事だ。
今は暖かい感動が麻由を包んでいる。
真子が眠くなり騒ぎ始めた。この夜半田家に笑う声が絶えなく、外には星がキラキラと瞬いて、まるで後藤とあのチワワがニコニコしながら其の様子を見ているかの様で有った。
       完了


  タクシーの男と犬   その2
  
  夕べ出た時は心が乱れていて死ぬ事だけ必死に思い夢中で車を走らせた。今其の思いがポロっと落ちて人として取るべき道を選んでの帰り道、何と其の道の遠い事か。途中渋滞に巻き込まれたりガソリンを給油したり休憩を取ったりして昨日からの疲れも手伝い、木更津の街に入った頃にはもう身体はどうしょうも無いくらいに疲れていた。奥多摩を出てから実に7時間も車を運転して来たので、見慣れた我が家の近くまで来ると既に足も腰も背中も痛くて我慢の限界に来ていたのである。
だがこの辺りは何事も起こって無い様に麻由の眼には見えた。
マンションのエントランスを歩いている時、改めて部屋に入る恐怖が蘇って来た。でもこの街では何かあれば直ぐに大騒ぎになる。其れが殺人ともなれば尚更の事だ。だが何も変化は外にもこのマンションからも感じられ無い。いつもと同じだ。二階の自分の部屋のドアーの鍵を恐る恐る回した。鍵はかかっている。実は鍵をして出かけたかどうなのかはっきりとは覚えていなかったのだ。ドアーを開けて見ると果たして彼の無事を直ぐに知る事になった。足元に新聞受けから投げ入れたであろう勉の合鍵が玄関に落ちて居るのを見たからである。其れを拾ってリビングに入ると夕べ飲んで散らかしたままになっていた。
テーブルに置かれた花瓶の花が少し萎れている。其の下に、勉が書き殴った置き手紙が有った。[目が覚めたら麻由が出かけていないから黙って出ていく。タンスの引き出しから2万円借りていく。今まで有りがとう。金はいつか返す。気持ちは分かるが痛かったぞ。]見慣れてはいたのだが下手な字で読むに大変だ。しかし彼が無事でいた事に麻由は心からホッとし感謝した。彼らしい。この手紙の文面から麻由が真実を知ってしまった事に気付いていた様子が伺えた。モーテルの前で待っていたのを見たのでは無かろうか。車の色が目立つベビーイエローだ。これで彼が戻らない事が確実になったという事だ。今、勉の残して行った合鍵をまじまじと見つめて涙が頬を伝う。悲しいからなのか、安心したからの涙か麻由にもはっきりとは分からなかった。、使ったお金は今回のも含めて戻ることは決して無いだろう。だが、彼の少しの遠慮が見えた気がした。タンスには五万円入れて有ったのだ。今までの勉なら全額持って行っただろう。調べてみたがちゃんと3万円は残っていたのである。
ただ分かっている事は殺人をしなくて済んだという事である。後藤の、確かめてみれば、との言葉が蘇って来た。
・後藤さん、私、罪を犯さずに済みました。命を助けて貰って本当に有りがとう。戻って来て本当に良かったです。と、何度も繰り返し心の中で言った。私が本当の幸せを掴んだ時絶対にお礼をしたい。硬くそう心に刻むので有った。
 其れから瞬く間に2年の月日が過ぎた。
麻由はこの秋麻由は会社の同僚と結婚する。
穏やかで優しい半田雅夫と言う32歳になる男である。決してイケメンでは無いが誠実な人柄であった。麻由は26歳になっていた。勉と妹の仲は半年余りで駄目になったようだ。其の妹は来春他の男に嫁ぐ。
   ある日曜日の朝、麻由は意を決して後藤に連絡を取ろうと104番に電話番号を問い合わせた。
奥多摩辺りだと思いますが完成タクシーの電話番号をお願いします。」奥多摩ではタクシーの会社は何件も無く、簡単に番号は判明した。
直ぐにかけてみた。
「はい、完成タクシーです。」少しドキドキしている。「あ、私木更津市の小川と言いますが、其方の運転手さんの後藤達也さんはお仕事中でしょうか?」「え、後藤ですか?」「はい、60歳少し前位の。」
「其の様な従業員は今居ないのですが。」
少し慌てた様な感じで答えが返って来た。
あれから2年が経過している。後藤はタクシーの運転手を辞めてしまったのであろうか。
「そうですか?もういらっしゃらないのですね。」「あ、はい。だいぶ前からですが。」
「忙しい所有りがとうございました。」仕方なく麻由は電話を切った。私に会って間も無く退社したのね。残念だけど仕方無い。
そう麻由は考えて其れからは後藤を探す事は諦めていたのである。
  其れからまた3年が経った。麻由は夫の雅夫と1人娘の真子8ヶ月と雅夫の転勤先の東京の武蔵野市の仲町に移り住んでいた。
変わらずに雅夫は優しく、真子は眼の中に入れても痛く無いほど可愛い。幸せな日々である。
  真子が産まれてから麻由は専業主婦となっていた。雅夫を送り出して真子と食事をし、掃除や洗濯が済むと大体10時頃になる。この日も
丁度10時に手が空いた。何気なしにテレビをつけるとニュースが流れている。
麻由はバナナを少し潰して真子の口に運んでいた。「真子、はい、あーんして。美味しい?」
と聞くと真子は嬉しそうに手足をバタバタさせてウンウンと言う。
もう一度スプーンに取って真子の口に入れようとした時其れは聴こえて来た。「次のニュースですが、奥多摩のタクシー運転手の後藤雅也さん当時58歳の失踪事件に8年振りに進展が有りました。」え、!っとテレビに振り向くと其処にはあの奥多摩湖の想像を絶する画像に切り替わり、現地で、リポーターが説明をし出した。テロップに8年前に失踪したまま行方不明の後藤達也さんの使用していたタクシーが奥多摩湖から引き上げを開始。と出ていた。麻由は釘付けになった。リポーターの話しを聞くと、8年前に後藤達也は自殺をほのめかす手紙をタクシー会社社長に送りそのまま失踪していた。勿論警察に届け捜索をしたものの、飼っていた犬もタクシーも勿論本人も要として見つから無かった。其れが昨日湖の水位が下がりナンバープレートのような物が目視出来ると観光に来ていた老人が管理事務所に言って大騒ぎになったのである。ダイバーが潜って見て沈んでいる完成タクシーの発見となったのであった。
引き上げて中に果たして人がいるのか待たれるところだとリポーターは話している。麻由は息を飲み込んだ。其のタクシーを引き上げている現場は5年前、自ら飛びこもうとした、まさにあの場所に違いなかったからである。テレビを息も出来ずに見ている麻由。真子がバナナを要求しても動けない。だが、また進展が有ったらお知らせしますと其のニュースは終えた。
まさか、あの後藤さんで有ろうか。タクシー会社の名も運転手の名もまさに麻由が助けて貰った後藤さんと同じだ。だけれどもタクシーごと消えたのは8年前と報道されていた。
麻由の身体は抑えても震えて止まらない。
何故、何故との思いが廻る。とうとう真子が泣き出した。我に返って其の口にバナナを運ぶ。
しかし気持ちは動揺していた。次の報道が待たれる。しかし夕方になっても其のニュースは無い。気もそぞろなのだが主婦の仕事は休めない。夕食の支度をして雅夫が帰宅し食事をしてると7時のニュースを観てみた。政治の事や渋谷で先日起きた不差別殺傷事件が先にされて
次のニュースだった。奥多摩湖から引き上げたタクシーから白骨化された人骨と小さな犬の白骨が出て来た、警察では後藤達也さんと愛犬のチワワ、と見て詳しく分析をすると報道されたので有る。夫と我が子の前で麻由はもう冷静ではいられなかった。顔が青ざめ涙も止まらない。雅夫はさっきから箸を止めて様子を見ていたが、「このタクシーの人骨、麻由が以前言っていた、助けてくれた人なのか?」と聞いてきた。雅夫に隠し事は嫌で有ったから全て話して有ったものだ。・そうかも知れないの、いえ、絶対にあの後藤さん・と力無く言うと後は何も言えなくなってしまった。テレビに元気な頃の後藤の顔写真が映った。心臓が止まるかとの思いだ。
もう間違いない、あの、あの日の後藤さん本人の顔が其処に有った。夫に向かって言った。「後藤さんが行方不明になったのは8年前。でも私が助けて貰ったのは5年前なの。」まだ震えている。夫は「3年間何処かに隠れていたとは考えづらいよなぁ。」其れはタクシーごと3年間も隠くれ通すなんて無理な話しである。其れならあの日の後藤さんは一体。麻由はフッと思い出した。
帰ろうと決めて車の操作をしてタクシーを見た時にはもう無かった。音もしなかった。そんな短い間に走り去って、其れを気づかないなんて今考えれば
有り得ない事だった。あのタクシーはもともと無かったのかも知れ無い、助けてくれるため後藤が見せた幻覚。でも抱えてくれたあの腕の温もりや、励ましてくれた声やあのコーヒーの温かさは現実の事としか思えない。麻由はもっと真相が知りたい。と、そう思った。
雅夫が真顔で話し始めた。
「後藤さんは仕事や色んな事で悩み自ら湖に沈んだのだろうな。そしてあの日麻由を助け無くてはならない衝動で出て来てくれたのだろう。果たして本当の事を知る事必要な事だろうかな。俺は麻由が感謝の気持ち忘れないでこれからも生きてくのが後藤さんの1番嬉しい事何だと思うよ。」「3年間も寝ていたのに出て来てくれたんだからね。不思議な事だけど。第一誰も本気にしないだろう。」
雅夫が言う事は全く其の通りなことだった。
死を選んで湖に沈んだ彼がその無意味を悟って、命を捨てようとしている麻由を救った。
考えてみれば真実をもっと追求するのは本当に無意味な事だった。
自分に出来る事は後藤さんの意を汲んで、これからも幸せに生きていく事だろう。其れが後藤さんの供養になる。
不思議な経験だったけど其れで良いのだろう。誰が信用しなくてもあの日の後藤さんは確かに私を助けてくれたのだから。其の真実だけで充分な事だ。そう思うと
暖かい感動が麻由を包んで胸がいっぱいになった。
真子が眠くなり騒ぎ始めた。この夜半田家に楽しそうな笑い声が絶えなく、外には星がキラキラと瞬いて、まるで後藤とあのチワワがニコニコしながら其の様子を見ているかの様で有った。
       完了

短編小説1 ナンタルコトポン太

ナンタルコトポン太   

  桜が満開であった。公立の学校は春休みに入ったばかりである。入学式の頃には葉桜かも知れないなと邦夫は虚ろにそう思った。
 君島邦夫 三十一歳。中央線三鷹駅北口から関東バスの北浦行きを利用して武蔵野市役所に程近い大国総合病院迄通勤している。邦夫は大国綜合病院のレントゲン技師である。
バスが市民文化会館前の大きな交差点を大きく右にハンドルを切ると、息を呑むほどの美しい光景が眼に飛び込んで来た。幾年も其処に生きて来たであろう桜の樹がたわわに其の花を付け道路にアーチとなって其の道の奥まで広がっている。まるで自分に花が降り注いで来る様だ。行き過ぎてゆく桜を顔を上げてため息を吐いて見入る客が大半であった。
此処はこの辺りの桜の名所となっている。朝は混み合うこのバスに立って乗っている邦夫には見事な桜も其の瞳には色褪せて映っている。其れほど心に深い傷を負っていた。
 今年小学校に入学する筈の愛娘美咲は邦夫の妻浩代とともに突然自分の手を離れ家から消えてしまったのだ。ついこの間の事である。
邦夫にはとても信じ難い事で有ったから、中々其の事実を受け止められずにいたのである。


美咲の入学式に着る晴れ着やランドセル、文房具や学習机も既に購入してあった。その日帰宅してみると2人の姿が無くて美咲の部屋に探しに入ると其の学習机とベッドだけがポツンと残っていた。慌てた邦夫がリビングに急ぐとダイニングテーブルの上に無情に浩代が捺印した離婚届けと置き手紙が置かれていた。邦夫にとって其れはまさかと思う光景で有った。其の手紙には浩代の一方的な気持ちが書き連ねてあった。邦夫は其の手紙を眼を大きく見開いて読み進んだ。

 ・ 突然私達が出て行く事許して下さい。
邦夫さんとの結婚生活が嫌になりました。
美咲の入学を機に離婚したいと思います。
離婚届けを提出して貰えるかどうかは邦夫さんに任せます。当分の間私達の行き先は教えません。浩代 ・書いて有ったのは誠に自分勝手な内容で当然邦夫は其れを読んでる間冷静な気持ちではいられる筈も無く背中に寒気が襲っている。邦夫には浩代達二人に何も不自由をさせたつもりも、今まで手を挙げた事も無く、また浩代を本当に愛していたから、これは一体何故なんだ!と思うと身体がブルブルと震えていった。
暫くの間リビングの床に其の手紙を握りしめて
座って考えたが其の時の邦夫にはこんな仕打ちをされる覚えがまるで思い浮かばなかったのである。
暫くの時を経て家の中を見てみたら、美咲の預金通帳は無くなっていたが他の通帳も其の侭有って、浩代の貴金属と二人の衣類は全部無くなっている事が分かった。初めてその行為の陰に浩代の男の姿がうっすらと見えた様な気がした。其れは母娘だけで暮らすのには絶対に金銭が要る筈なのに当座の金だけで何も持ち出して居なかったからだ。
 浩代はかって大国総合病院で看護師をしていた。男好きのする美形の女で明るい性格で有ったから、レントゲン技師をしていた邦夫が時折患者をレントゲン室に連れてくる浩代に惚れるのは早かった。浩代もそんな邦夫に満更でもなかったのだろう。アタックして来る医師や看護師は多かったが其処から邦夫を選んだのである。
だからこの八年の歳月は邦夫は幸せで有った。
まして美咲が産まれてからは尚更で有った。
浩代もそうで有るのだろうと、今はそう思い込んでいた自分に腹が立って仕方が無い。
 邦夫は真面目一方で無口な男である。
ただひたすら働いて愛する家族を淡々と護って来た。美咲が可愛くてならない。妻が愛おしい。だが其の表現は誠に不器用で有ったから二人が消えて日が経ってやっと其れに気が付いて邦夫は心の底から後悔したのである。浩代にとってどれ程自分がつまらない男で有ったのかと思い知らされていたのである。邦夫は其れでも仕事を休まず何とか続けていた。そして二人を捜そうとはしなかった。何故なのだろうか。少しばかりの男の意地で有ったのか其れとも其の気力さえ失っていたのか。本当のところ邦夫自身其の意味を理解して無かったのだろう。だが辛い日々の中で美咲の入学にもう日が無い。考えて考えて邦夫は離婚届けに押印して昨日小平市役所に離婚届けを提出したのである。血を分けた我が子が書類上は他人となり浩代も他人に戻った瞬間であった。そんな邦夫にとって咲き誇る桜も色も、むせ来るその香りも褪せて見えて無気力に感じるのも至極当然の事なので有る。
 時は其れから瞬く間に二十五年も過ぎ去って行った。
また桜の季節が訪れた。今年も病院への道は桜のアーチで見事である。
あの日から二十五年と言う歳月が過ぎ去っても邦夫にとってその苦悩は褪せる事は無く、可愛い娘と浩代が突然消えたあの日のままであるから今年の桜も邦夫には虚ろに見えているのだ。
彼の歳も五十も半ばを過ぎてしまっていた。あれからの邦夫のその寂しさや苦しみが其の顔に深い皺を刻んでい、尚更無口になって、独りの生活も慣れたとは言え荒れていた。若い頃から飲めないタチなのにいつの間にか酒を覚えて寂しさから幼馴染みの前川勝男が営む居酒屋に毎晩のように職場から戻って小平駅の改札を南に出ると真っ直ぐに向かい、其処でブツブツ言いながら身体を丸めて呑んで食べて帰るのが常となっている。其の店の名は[勝ちゃん]である。
其の主人の勝ちゃんもまたこの二十五年の間変わりゆく邦夫の姿を見つめ続けた一人だ。
 浩代は邦夫が離婚届けを提出したのを知ると一旦住民票を杉並区に移している。其の時唯一邦夫は浩代に会おうと決意し捜査を其の機関に依頼した。だが既に杉並から更に住民票を移動して有り法的に隠されてい、其の後の足取りを追えないとの捜査結果を伝えられてからはもう探そうとはしなかった。これ以上は自分がとても惨めに思えたからだった。浩代の事は仕方が無いと思えば思えた。だが美咲は自分の子供である。親権の話し合いもぜず離婚に応じた自分を責めていた。責めて責めて責め抜いた。そしてこの年月の間子供の美咲に逢いたくて堪らない日々を過ごして来たのである。今はもう美咲も三十路を越えている。もしかしたら既に孫もいるのかも知れない。だが瞼に浮かぶのは幼い頃のおかっぱ頭の大きな瞳をしていて自分と同じ眼の下に小さなホクロが有り、あの日の朝出勤する邦夫に向けて笑った其の美咲の可愛らしい顔しかない。其れを思うと尚更寂しかった。あれから邦夫は再婚をする気持ちにも成らず独りを通して来たので有る。そんな風に殊更難しく暗い性格になっていた邦夫であるから仕事場に於いてももう随分長い間、仲間内で浮いている。懸命に働いて出世しようとの欲もとっくに失せて、そんな事はどうでもよくなっていたから、自分が生きる為に仕方なくレントゲンを撮り、終われば勝ちゃんの店で酒を呑み喰らう、そんな惰性の繰り返しの日々を送っていたのである。
 そんな風にすっかりうだつの上がらなくなってしまった邦夫はレントゲン技師の主任止まりで若い技師仲間からも当然のことながら疎まれていた。この日の昼間、患者を取り違えてレントゲンを撮ろうとした笠川技師を怒り付けた。「分かってんのか!笠川一つ間違えば訴訟にも成り兼ねなかったんだぞ!。」有ってはなら無い過失である。邦夫が気付か無いでいたらどんな事になるかも知れなかった。其れにこの男は若いのに子供も居て幸せな結婚生活を送っている。そんな事が邦夫の腹癒せになってかの事で有るのかは邦夫自身自覚は無かったが、一つの要因となっていたのだろう。
ところが若い笠川は其の邦夫の言葉に逆切れして「何だかんだと煩いですよ。主任だってぼっとして失敗ばかりじぁないですか!」と喰って掛かってきたのである。邦夫にプライドは少しばかりまだ残っていた。
反射的にブチ切れて笠川に殴りつけたのだ。幸い側にいた看護師に止められたけれども其の際に食わせたパンチは笠川の前歯を折る怪我を負せてしまった。邦夫は本来気が小さい。その笠川を見ると其の足で事務所に向かって歩き出した。其れは何処かで何かがストンと抜け落ちた様に無表情な顔をしていて、事の次第を見ていた技師仲間には邦夫の気持ちに何か変化が起きた様に映ったのだ。
訝る人事課長に「済みません、部下を殴ってしまいました。病院を辞めようと思います。」と静かに伝えたのである。課長は事の顛末を聞く迄も無く直ぐにレントゲン室からの報告を受けていた。分かっていて顔色も変えずに「あー、気持ちは分かるけど殴ってしまったのは駄目だな。ま、今日は早退して少し有休で休んだらどうかな?辞める辞め無いは其の後決めたらどうだろう?」と窘めて来た。本当のところ課長は厄介な事だと感じていたのに違い無い。其の気持ちを邦夫は手に取る様に感じていた。そんな事が有り、つくづく自分が嫌になってしまった。其れだから何時もより早く引けた事もあって勝ちゃんの店が開くのを待って夕方早くから殊の外荒れて呑んでいたのである。明らかにいつもと違う邦夫の様子であった。
女ばかり三人ではしゃぎ出した客が邦夫のカウンターの並びに座って居て、・何も起きなきゃ良いけどなぁ〜・と、勝っちゃんは胸騒ぎを覚えていた。居合わせた常連の客も同じ思いで有る様だ。忙しく店の中を動き回りながらちょいちょいと邦夫に眼を向けて勝っちゃんは気をつけていた。和室の客に刺身の皿を運んで少し眼を離している時だった。邦夫がムクッと立ちあがり隣の三人に向かって吠えた。
「ちょっと、昔のお嬢さん達、静かに出来ないのか〜!」あ、やっちまった!と勝っちゃんが反射的に振り向くと皆んなの視線も邦夫に向いている。
邦夫は自分のカウンターに乗っている酒の入ったコップやおでんの皿を其の右手で払った。
其の音は殊の外大きくて其の女性客の一人が悲鳴をあげた。其の声を聞いて因縁を付けた邦夫が少し我に返った様にビクッとした後、放心した様にそのまま店の外へフラフラと出て行き戸を後ろ手で勢い閉めた。「な、何なの〜、あの人〜!」と女性客の声が邦夫を追いかける様に聴こえて来ていたがふらつきながら駅の南口に向かって歩きだしたのだ。
「邦さん今日はいつもと違うねぇ〜。勝ちゃん。」初老の常連客が騒ぎが収まるのを待って言った。「前はあんなじぁ無かったよなぁー。」他の客も言い出した。女将が壊れ物の片付けをしている間に
「まぁま気を取り直して飲み直して下さいよ。」と、勝っちゃんは其々の客に酒を注ぎに廻った。邦夫は心の傷を抱えたまま長い間耐えて来たのだ。と思うと怒る気にもならない。ただ溜息が出た。ただ酒を振舞われた客に笑顔が戻ってまた店の中が賑やかになっていった。
 邦夫の眼の前に、遮断機が降りそうになりカンカンと音が鳴り出した踏切がぼんやり見えている。其の踏切の遮断機に軽くぶつかりながら邦夫は踏切に入って行った。誰も居ない。遮断機がすっかり降りて右手から新宿行きの上り電車が音を立てて近づいて来る。いや、死ぬ気などでは無い。邦夫は飲み過ぎて状況が良く分かって無かっただけなのだ。其の時、邦夫のズボンの裾が何者かに強く引っ張られて後ろ向きに転んだ。
其の瞬間邦夫の右足の指先をもう少しでかすりそうになり電車がもの凄い音を響かせて通って行く。ホームに止まる電車だからスピードダウンはしているが其れでも凄く速い。本当に寸での所であった。邦夫は我に帰って遮断機に向かって慌てて漸く這い出した。そのまま転がる様に踏切の外に出ると腰が抜けた様になって道路の端っこに座り込んでしまった。胸が大きく波打っている。暫く放心していた。今も誰も居なかった。星も良く見え無い空を仰いで大きく息を吐いた。何処からか桜の花びらが1枚舞っている。其の花びらがやけに白く眼に映る。暫くすると少し酔いが醒めた様だ。ずっと両手を後ろについていた。酔っ払いが立てずに居ると見たのか見知らぬ男が「おっさん大丈夫ぁ〜。」と言いながら踏切を渡って行った。其れで一息つけた。其の時手に生暖かい感触があるのに気がついた。其れは少し前からだったのかも知れ無い。振り向いてみると柴犬が尾を振りながらしきりに邦夫の手の指を舐めていたのである。
・こいつか、そうか、こいつのせいで助かったのか!・少し犬を撫で回し落ち着くと邦夫は抱いて立ち上がり家に帰ったのだった。其処に確かな生き物の重みと肌の温かみを感じながら。
 朝の陽がサッシの窓のカーテンの隙間から差し込んで邦夫は目が覚めた。頭が痛い。
・そうか、夕べは飲み過ぎたな・髪の毛を掻きながら玄関へ新聞を取りに部屋を出た。
クゥーンと声がしている。
・あれ?何だろ?・狭い廊下を出ると直ぐ玄関である。其処にはまだ若い柴犬が邦夫に顔を向け尾を振っていたのである。
「あ、お前は、そうか!あれは夢では無かったのか?」「良く助けてくれたなぁ〜ありがとな。」とその犬の顔を撫で回しながら何度もそう言いながらシミジミと眺めると、かなり体が汚れているのに気が付き「しかしお前汚れてるなぁ〜、首輪も汚れて、何処から来たんだ?」犬はキョトンと尾を振り続けて見ている。柴犬は横に広がった顔のタイプと狐の様な顔をしたタイプが有るのだが、この犬はタヌキに似ている。
「後で飼い主を探そうな?もしかしたら必死に探してるかもしれないからな。うーん、そうだ見つかるまではポン太で良いか?、不便だからね。」邦夫は珍しく犬に向かって雄弁で有った。
元々犬好きでは有ったのだが此れ迄飼った事は無い。先ずは散歩に行かなければなら無いのだが、ポン太を引くロープも無い。仕方が無いので、手ぬぐいを何本かに破いて其れを繋ぐと
手ぬぐい二本分でまぁ何とか丁度良い長さの紐となったから其れをヨッテ、ポン太の首輪に繋いでみた。
久しぶりに近所をゆっくり歩きまわり、
散歩の目的を終えて帰って来た。朝の清々しい空気を吸いながら歩いたものだからお腹が空いた。其れはポン太も一緒だろう。はて何を食べさせれば良いのだろう。とりわけ、自分の食べるものも冷蔵庫には無い。ポン太を繋いだらコンビニに行って来よう。と思いついた。
勝手口から奥へ入り狭い庭に出て見ると、雑草に覆われている。だが今朝はそんな事も新鮮に映る。取り敢えず洗濯干し場の下のコンクリートの上に古い毛布を敷き、二階のベランダを支えている柱にポン太を繋ぐと
案外大人しく其の毛布の上に座ったものだ。
ポン太にはドックフードを、自分はおにぎり二個とお茶を買って帰り、古いボウルにドックフードを入れ、丼に水を入れポン太の前に置くと、サッシ窓の敷居の所に邦夫も腰をかけ一緒に朝ごはんを食べた。小気味良くカリカリと音を立ててポン太の食べる姿を見てると一人では無い事が次第に嬉しくなって来て昨日の出来事で憤っていた気持ちも溶けていく様に思えた。ほんの少しだけ優しい気持ちが邦夫に蘇って来た様だ。後で風呂に入れてあげよう。今日は金曜日だから動物病院も空いてるだろう。健康診断をして貰おう。そうだ、ペットショップに行ってこいつの物も買おう。そんな事で邦夫の頭は今いっぱいになっている。風呂でシャンプーをして洗い流し、ドライヤーで乾かして見ると
少し硬くてピンと張ったポン太の身体の毛から
良い香りがしてとても可愛いい。たちの良い犬であるからもう外に出す気は無かった。さっきの毛布をリビングの隅に敷いてポン太はそのまま家の中に入れて置く事にした。家の中では引き綱は要らない。大人しくしている事は分かる。
何故か嬉しくて其のポン太に一枚の写真を見せながら話しをした。その写真は幼い美咲が写っている。おかっぱ頭でピンクの花柄のシャツを着てニコニコ笑っている。右眼の下にそばかすより大きくてそれより黒いホクロが有る。
ポン太は其れを見ながらクゥーンと一声上げた。「どうだ、可愛いだろ?美咲と言うんだよ。この子は俺の娘なんだ。」言われたポン太は邦夫の顔を頭をかしげて見ている。
「お前には分からないだろな、会いたいんだよこの娘に。」ポン太はワンッと吠えて其れはまるで邦夫に返事をした様で有った。
普段は通勤に車は使っては無く、暫くぶりに邦夫は軽自動車を動かした。助手席にポン太を乗せて、アカシア通りを南に走らせ動物病院を探したが無い。青梅街道を左にハンドルを切って新宿方面に走らせると、程なく刈谷動物病院と看板が見えて来て其の先にその病院が有った。青梅街道沿いにしては、小さな病院では有るが、専用の駐車場が一台分だけ幸いにして有ったので助かった。手ぬぐいの紐を引いて中に入ると誰も居なくて診察口が開いたままになっており、其の中からどうぞー、と間延びした声がしてきた。こんな物なのだろうか、と内心思いつつ中にポン太を連れて入って行った。
初老のメガネをかけた刈谷医師が私服のまま腰かけていた。「おー、可愛い柴ちゃんだねー。迷い子犬だね?」と獣医は言い当てた。紐を見て分かったのだろう。「はい、ずいぶん遠い所から来たみたいで、健康診断して貰いたいのですが、其れと飼い主を見つける方法が有ったら教えて貰いたいのですがー。」と聞いた。
そだねー。と言いながら刈谷は診察台にポン太を乗せるとお腹をさすったり、口を大きく開けて中を覗いたり、暫く足や尻を見たりしていたが、
ニコニコと邦夫に向いて言った。
「大丈夫だね。健康そのものだ。ま、暫く外で食べ物を拾い喰いしたと考えられるから少し虫下しを出して置こう。」「そうですか。」と邦夫は小さな声で返事をした。「この子の写真を持って無いかな?」と刈谷は言う。鑑札が付いていれば飼い主を探すのは簡単らしい。だが、鑑札はポン太には付いてはい無い。後があるので取れてしまったものらしい。写真は元より無かった。刈谷は自分の携帯でポン太の写メを撮った。「この子は何処に居たのかね。?」と聞く。「はい、夕べ10時過ぎ頃に小平駅の北口側の踏み切りの辺りに居ました。」刈谷はうなづきながら携帯を操作している。何をしているのだろうか?
「あ、今取り敢えずTwitterにアップして拡散して貰うからね。あと、此処にも外にチラシを貼って置くからね。飼い主見つかるとよいね。ー。」と言ってポン太の頭を撫でている。スマホでそんな事が出来るのか、と感心していると。
住所と電話番号書いて帰ってね。と言われて幾分安心した。診察料を払い、虫下しの薬を受け取って其の足でベットショップを探しに車を走らせた。「健康だってさ、ポン太良かっね。でも診察料あんなに安いものなのかなぁ?ポン太、」ポン太はもう丸くなって寝ている。
迷い犬だから良心的な診察料しか取らなかったのを邦夫は知らなかった。獣医は様々なのである。ポン太はこの辺りで一番人気のある獣医の所で診て貰ったのだ。昭和大付属病院の側に大きなホームセンターが有って其処にベットショップがある。ペットも店に入る事が出来る。一応新しい首輪と引き綱を女の子らしいピンクで揃えて餌も買い足し、同様に可愛いい模様の餌の器、水の器とおしっこシートを買い、スーパーによって家に帰ったのはお昼もとうに過ぎた午後2時頃である。家の中が明るくなった気がする。あの事で月曜日まで有休を取って有るから其の間に飼い主が見つかるといいなと思うのだが反面見つからなくても良い様な気もしている。ポン太はお風呂に入り、医者に行き、ベットショップにもスーパーにも行って流石に疲れたのだろう、毛布の上でグッスリ寝てしまっている。
この家の中で自分以外の息遣いを聞いたのは実に25年振りの事だ。
電話が鳴っている。面倒だなぁと思いながらも受話器を取った。勝っちゃんの声が聴こえて来た。「おう〜大丈夫だったかぁ〜。夕べ荒れてだから、何かあったのか?」幼友達を心配して電話をして来たのだ。嬉しくて申し訳無く暫く何も応える事が出来なかった。
「話聞くからまた来いや。どうせ今夜また来るだろ?」勝っちゃんは優しかった。
「ありがとな、今夜は無理だけど近い内に行くよ。」やっとそう答えると「おう来いや〜、さ、じゃあ仕込みしてるからまたな。」と勝っちゃんは電話を切った。友達は有難いなぁ〜と思いながら邦夫も隣の部屋のベットに横になった。天井板の節目をジッと見つめているうち、目頭が熱くなり涙がツウーッと伝わって落ちた。邦夫にも分からない涙の訳ではあった。
 埼玉県の新座市、今はベッドタウンとして宅地が開発されて、東京の郊外と同じような一軒建ての住宅が立ち並んでいる。
まだ畑や緑も東京のそれよりは多いのだった。
早川美咲の住んでいる所は其の立ち並んだ住宅地の中にある。建て売り住宅であるので狭い庭とガレージの直ぐそばが隣の家の外壁となっている。東京都下の狭い土地を有効活用して建てる建て売り住宅の条件と大して変わらない。
 早川美咲31歳。6歳の息子拓也と穏やかな夫圭之助の3人家族である。
 真新しいこの家の子供部屋には、購入されたばかりの勉強机とランドセル、そしてクローゼットの中には拓也の式服が吊るされている。
明後日が入学式であり、其の準備は整っていた。拓也は美咲に似たらしく、右目の下に小さなホクロがある。この拓也を中心に美咲は幸せな暮らしをしていた。ひとつ散歩中にはぐれた犬が帰って来ないのを覗けば。犬の種類は柴犬、雌で一歳半。名前をポン太と言う。タヌキに似ている顔立ちだから美咲が速攻で付けた名前である。雌犬であるので男の子の様な名前だが家族に異存は無かった。利口な犬であった。はぐれて10日を経ていた。勿論とても心配して保健所や、市役所、近所のペットボランティアなどには捜索の嘆願は済んでいたし、圭之助の休みには近所を必死に探し回っていた。ポン太はかけがえの無い家族であったのだ。
 だがもう、探しあぐねていた。
もう帰っては来ないのでは無いか、誰かが連れて行ってしまったのでは無いか、半ば諦めにも似た心境に陥っていたのである。
美咲には他人に容易には言えない過去が有る。
幼い頃浩代に連れられて小平の家を出た。タクシーを降りると美咲の知らない男が待っていた。怖かった。
何故なのか理由が分からずに其の男のアパートに暮らす様になって家に帰りたくて毎日ぐずっていたようだ。パパに会いたい。其の辛い気持ちだけ覚えている。直ぐに杉並の第四小学校に入学して幼いながらももう家には帰れないのを悟って其れからは浩代に従うしか無くなったのである。浩代から邦夫の事は忘れろと言われ続けて二年の月日が過ぎた頃突然浩代が其のアパートから消えた。親では無い男の元に残されて美咲は途方に暮れたのだが其の男は美咲を可愛がって高校を卒業するまで養ってくれたのである。法律上では養父の片桐雅夫である。
気の良い男であった。自分を踏み台にして消えた妻の連れ子を自分の子の様に育てたのだから
美咲も実の両親が自分の周りから消えてしまっていても幸せに成長する事が出来たのである。
だから其の家を嫁ぐ為に出てからも雅夫は父であり、ジジなのである。其れでも実の父親は恋しかった。かすかに其の顔の眉間の辺りと自分と同じところにホクロが有るのを覚えているが、出てきた家の詳しい住所や其の風景も遠く霞んで探す事も出来ずに今日まで来たのである。浩代は新しい男に走ったまま行方知れずになってたが、雅夫も美咲も探そうとは思わないできたのだ。だから戸籍上は浩代は片桐の妻のままになっている。美咲はこの事を親友に聞いて貰おうと考えていた。今まで溜めていた思いを誰かに聞いて貰えれば気が軽くなる。ちょうど今日辺り其の親友の洋子が来る筈であった。
昼のご飯を終えて其の片付けに立ち回っていた。玄関に「こんにちは〜。」と聞き慣れた声。親友の中村洋子である。拓也と同い年ので女の子がいて其の2歳上に男の子がいる。下の子の恵子は拓也と先日同じ幼稚園を卒園したのである。「上がってーー。」と美咲は玄関に出ずに声をかけた。洋子の訪問はとても嬉しい事で有った。
子供達が幼稚園を卒園して入学式までの間にその事を話そうと思っていた。
 洋子は拓也にお下がりの靴を持って来た。
「あら、ご飯だったの?」と様子を見て洋子は聞いた。「遅いご飯でー、片付けてたところなのよ。」洋子は其の靴は同じ古だがサイズが合うのでくれるのだ。
洋子は歳も美咲より8才年上で、親友を超えて姉みたいに思っているところが有って、何でも相談出来る唯一身近な存在の人だ。また人柄も良く人の悪口など口にしたのを、この三年間美咲は聞いた事は無かった。
「はい、お約束の拓也ちゃんの靴。」と言って紙袋を渡された。美咲は受け取りながら「わぁー、有難う、拓也履いてみる?」と拓也に促したが、もう友達と遊ぶのに夢中で子供部屋にはしゃぎながら消えてしまった。一緒の学校に入学する。「後で良いじゃ無い、それよりね。」と洋子は携帯をバックから出して来た。其れを開いて操作している。
何をしてるのだろ?「Twitterにね、これが出ていると、主人が教えてくれて見てみたのだけど、これ、ポン太ちゃんの事じゃないかな?」
美咲はTwitterはしていなかった。覗いてみると、「迷い子犬ポン太「仮名」保護。拡散希望。」と書いて有り、其の犬の写真が貼って有る。タヌキの様な顔立ち、大きさ、確かに似ている。ドキドキしてきた。でも何故ポン太と言う名前を付けたのだろう。
そして刈谷動物病院の連絡先が明記されている。小平市仲町、小平、そんなに遠いところ?え、小平?パパがいる街だ!そう思った。
「これ、当たってみる価値ありジァ無いかな。?」洋子の声にうなづく美咲。気持ちは動揺している。期待が高まる。渦巻く疑問も有る。「このアカントにDMしてみる?」と聞いてきた。何のことだか分からなかった。「あ、この載せた人に直接にトーク出来るの、ラインと同じよ。」美咲は納得した。でも電話の方が早く聞く事が出来る。美咲は連絡先をメモして家電からダイヤルした。洋子は其れを見守っている。
呼び出し音がしている。長く感じて息が詰まる。唾を飲み込んだ時、「はい、刈谷動物病院ですー。」と間延びした声で応答してきた。
「あ、お忙しいところ済みません。私、新座に住んでいる早川と申します。」「あのう、Twitterを見てお電話してます。」「あ、そうですか、どの子かな?2、3載せたので。」「ポン太と言う、柴犬です。」「あ、迷い子犬のポン太ちゃんですね。」刈谷はあくまで優しい対応だ。
だが今は急患を対応していてると言う事で、美咲の電話番号を聞いて来た。手が空いたら連絡をくれる。仕方なく美咲は電話を切った。
「あ、そうなのね、気がもめるけど仕方ないわね。」と洋子は美咲を宥めた。美咲は浮かぬ顔をしている。「どうしたの?希望が出て来たじぁ無い。待とう?」と更に促した。
美咲は胸の内にある事を洋子に今話す気になっていた。まず、どうして仮の名がポン太なのか。そして保護しているのが小平市に住む人らしい事。🌷
その小平市には特別な思い入れがある事を話した。そして先程の事を全部話し終えた。洋子は冷静だった。小平市に住んでいたのだけども、幼い記憶は曖昧で所番地もはっきりとは覚えて無くて、
捜す事も祥代から止められていた事。などを実に休み無く続けて話した。「そうなのね。気持ち分かる。もし、これが美咲さんのポン太なら小平まで引き取りにいくのでしょ?」「そうなるね。」
「複雑よね。お父さんが居るかも知れない所に踏み込むのって。確かにポン太と言う名も偶然にしても不思議よね。」と言う。
「取り敢えず、刈谷さんからの連絡待ちよ。」と洋子は言う。
その通り、なんだかんだと思っていても仕方ない。洋子と話しながら美咲は遠い昔を思い出していた。背の高いお父さん。無口だけど可愛いがってくれていた事。うっすらと眉毛と目を覚えている。そして祥代が・くにおさん・と他人ぎょうぎにパパを呼んでいた事。急に家を出て来た時の強烈だった、ドアーの閉まる音などを。其れから暫く洋子とのお茶会になった。携帯で時間を確かめると4時である。
刈谷からの電話がまだ無い。「あ、お茶入れ替えるね。また紅茶でいいかしら」と言い切らない時、家電がなった。ドキドキして出てみると刈谷からである。胸がつまる。
そして刈谷はポン太は元気だという事。保護主は小平駅前近くに住まいする君島さんと言う男性だと言う。其の瞬間心臓が止まる気がした。美咲の幼い時の苗字に違いなかった。刈谷医師も下の名は知らないらしく、引き取りに来るなら案内をしてくれると言う。後で連絡する事になった。其れどころではなかった。美咲の胸は爆発するのでは無いかと思う程大きく打っている。パパと同じ名字、小平!そうじゃぁ無いかと思うともう我慢ができない。まだ確かな事は分からないがもしかしたら、もしかしたらとの思いが頭を、占領している。
美咲は振り向いて洋子を見詰めて堪らず泣き出した。
「どうしたのー。?」と心配する。
・保護してくれたのパパかも知れない!
私のパパかもー。・泣き崩れる美咲に洋子も驚きを隠せなかった。
「え、そんな事ってぇー!・・でも頑張って、行くしか無いわよ!」と美咲の背中を撫でた。テーブルに顔を伏せて泣きながら何度も何度も美咲はうなづいている。
 もしかしたらポン太の飼い主かも知れない人から連絡が有り、明日午前中に家に連れて行くと刈谷獣医から連絡が入ったのは日曜日の夜8時を少し過ぎた頃で有った。その人は埼玉の新座市から子供を連れて来る早川と言う女性だと言う。邦夫はTwitterの力は凄いと思いはしたが、少し残念な気持ちがしていた。本当に飼い主なら明日の午後にはポン太は渡して居なくなる。も少し後でも良かったのに。リビングの毛布の上にチョコンと座り自分を見ている可愛いポン太と別れなければならない。いや、ポン太にとって其れが幸せの事、当然諦めなくてはいけないだろう。思いは行きつ戻りつした。複雑な心境である。
ふと思った。新座市から?何故こんな遠い所に子ども連れで来るのだろ?預ける人がいないのだろうか?、其れともまだ乳幼児なのだろうか。
あ、あ、何てくだらない事を考えてるんだ俺は。思い返してソファに座り直すと、ポン太が隣に座って、邦夫の膝に顎を乗せて上目遣いで見ている。何かを感じているのだろうか。ポン太は利口な犬であるのは身に染みて分かっている事だ。何しろ俺を助けてくれたんだから・頭を撫でながらしみじみそう思った。
「ポン太、明日お別れかも知れないから、もう一度言っておくよ。助けてくれて有難うな。」
ポン太との二日間は邦夫に確かに変化を与えていた。まず酒をあれからは飲んで無かった。そしてその辺に咲いてる草花にも目を向ける、そんな風に気持ちの余裕が出で来ていた。そして最大の気持ちの変化は永年勤めた大国病院を本当に辞める決心をした事で有った。邦夫は56歳、定年まで病院にいるより何か新しい事をしたくなった。俺は変わらなくてはいけない。其れには今しかないと思ったのである。
其れを勝っちゃんに話したら、其の新しい事が決まるまで店を手伝ってくれると有り難い。と言ってくれたものだ。月曜日には取り敢えず大国病院に連絡するつもりで居たのである。
愛おしくなったポン太とこの夜はベットで一緒に休んだ。ポン太も嫌がる事も無く、邦夫の側で寝息を立て安心している様にねたのである。
一夜が明けた。散歩をして食事が終わり軽く掃除を済ませるともう9時を回っている。
思い立ってお茶を買いにコンビニにポン太を連れて行った。取り敢えずジュースも混ぜて5本もベットボトルを買って、ゆっくりと家までのなだらかな坂を下りてゆくと家の前に軽のバンとブルーの自家用車が停まっている。其の自家用車の後ろのドアーが開いてそこから男の子が出て来た。ポン太はいきなり駆け出した。思わず引き綱を離してしまった。・ポン太!邦夫が呼ぶのとその子が呼ぶタイミングが一緒だった。振り切るほど尾を振りながらポン太はその子に飛び込んで行った。其の瞬間。助手席からその子の母親が出で来た。運転席から優しそうなさの高い男が降りた。刈谷医師はバンから降りて成り行きを見守っている。
其の母親はまっすぐに邦夫を見ている。近づいて見ると其の子どもの右眼の下のホクロが見えた。邦夫を見据える母親の右眼の下にも同じホクロが有る。同時に美咲は邦夫の眉と目を見ながらその眼から涙が溢れ出でいる。全てを邦夫も美咲も確認し納得したのだった。刈谷医師も其の状況を唖然として眺めて居たが、車に戻るとニヤニヤと笑いながら其の四人を置き去りにして車を発進して行った。
拓也と圭之助はポン太と遊んでいる。
其れを見て「僕の孫か?」邦夫が言ったものだから
美咲はただ邦夫の手を取ってうなづいた。
反対側の手にはお茶の袋を握っている。
其の袋が小刻みにカサカサ揺れている。
圭之助は遊びながら二人を見て泣いている
そして邦夫と美咲の2涙は長い間止まらなかった・

翌日、新座市の第二小学校の入学式に邦夫の笑顔があった。ポン太が繋いだ親子の縁。
25年前我が子の入学式には参加が叶わなかった
。だがこの晴れの日に隣にその娘美咲と圭之助が一緒に居て、今可愛らしい拓也の入学式に出席している。感慨無量である。 邦夫の周りに穏やかで優しい空気が泳いでいた。
何故ポン太が自分の所へ来て助けてくれたのか。まして其のポン太がどうして二十五年求めて止まなかった娘の美咲の犬で名前がポン太だったのか。考えても其の理由は分からなかった。ポン太、お前は本当にナンタルコトポン太だなぁ〜。邦夫はこの不思議な縁に大きな息をはきながら感謝していた。
 かくして 校庭の桜は美しい色を讃え寿ぐ様に実に満開であった。

         ナンタルコト ポン太 完

後書き
Blogを整理し新たに投稿したものです。ですから読んで頂いた方もいらっしゃると思います。
 本当に未熟で拙いこの物語を読んで頂いた方に心より御礼申し上げます。
 私はある劇画家に若い時押しかけ弟子入りをして劇画を教えて頂いた。
だが其の道を歩く事は叶わずに今日に至っている。
絵は相変わらず好きで劇画では無いが今はイラストを描いて楽しんでいる。
師は絵と同時に話の構成や吹き出し台詞の使い方も教えて下さった。
其れが作文をする楽しみに繋がっていった。
この話は一番目の話しである。

話の構成も文章もまた私の持つ言葉の数の少なさに実感している次第です。また他のお話で投稿したいと思っております。有難う御座いました。 完