白い月と黒い瞳

全く何もしたくは無かった。白い月が能登子の後を着いて歩いてる様に絶えず見えてはいた。
冴え冴えと身を刺す様な冷たい空気。其れは冬の朝のまだ6時を少し過ぎたばかり、此れから最低気温を記録する。まだ薄暗く山道を歩く彼女は行き先に何が潜むか知らぬも少しも寒さも感じては無かったし少しも恐ろしくは無い。
ただ空虚で何処でも良いから人生の終わりの場所を急いで探したかった。
もう少し時間が過ぎ明るくなればまだ民家も所々に点在する場所、誰かと遭遇してしまうかも知れない。能登子は少し先の脇道を分け入って行こうと決めた。1つだけ街灯が明るい。
其処を入ろう。きっと奥に行けば其の場所は見つかるかも知れない。そう思うと足が急ぐ。
其の脇道を入って少しすると道がどんどん狭くなって来て肩幅位の道になっていた。足元に雑草も増えて歩きずらい。元より高いヒールの靴を履いている。周りを見渡すと白んできたから周りが幾分か見易くなって、左の奥に丁度良い枝が伸びている松の樹が見えた。あ、あれにしよう。ふとその樹の下を見ると黄色の小菊が咲いている。
能登子は此れから旅立つには相応しいと思った。其処へ急ぐ。トートバッグから用意していたロープを其の枝へ向かって投げた。
松の樹を少し登り其処に首をかけ足を外せば足が地面から離れる其の位置へロープを結ぶと
いよいよ松の樹へ足をかけようとした。
其の時、この29年間の自分の人生は本当にろくなものでは無かったと頭を過ぎたのである。
両親の離婚、どちらにも引き取りを拒否され母方の実家に預けられて、この時代に中学を卒業したばかりの15歳で社会人となり独立して1人で生きて来たが最初に勤めた会社でイジメに遭い退職をしてから、お決まりの歪んだ世界に身を置き他の女や男と競争しながらその華やかな世界に身を置いてきた。
男に最初に身を任せたのも17歳になった春であった。
相手を愛した訳では無い。食べる為客の誘うまま抱かれたのである。其の時其の男は能登子に3万円をなげて寄こしたのである。店で酒と色気を売る。其れは最初の内は其れでも抵抗が有った。何時しか可愛い子ぶって男に貢がせるそんなテクニックも能登子は覚えた。源氏名をルイと名乗った。店が引けて男とそんな関係を持つのは勝手で有ったから、誘われれば断らない。 
いつの間にか貯金も増えて能登子はそんな自分がいけない事をして居る、そんな感覚もすっかり麻痺して行ったのである。
元々能登子は男好きのする顔と肢体をしており
そんな男どもを捕まえるのには苦労はしなかった。客には惚れない。其れを信条として、割り切って仕事をして来ていたし、金も降るように入って来て、ある種覚悟さえしてればあながち
悪い社会では無いと、寧ろこの間迄人生を高を括って謳歌していたのである。だがやはり甘くは無かった。頻繁に誘って来た客を少しづつ好きになって来たのである。其れが3年前の秋のだった。能登子の回顧はまだ続いて居るが
そんな能登子の様子を遠くの草むらから見ていた2つの眼が有る事に終ぞ気が付かない。
其の男は40歳を過ぎた毎朝新聞社の新聞記者をしている高村公平。仕事柄頭が良く能登子の店(ローズマリー)に時々来ては帰りに能登子を誘い出していたので有る。
  町田能登子 はこの公平に他の人には無い優しさと影のある部分を初めから魅力的と感じていた。
ただ公平は妻帯者で有り、あくまでも金と割り切っての付き合いをして来たのだが、半年も過ぎた頃にはその公平を愛していたのである。ただその頃から公平は店に来る客の噂話しを能登子から聞き出すのに躍起になって行って、手持ちの金が無いから用立ててくれるようにねだる様になっていったのである。
本心で惚れた事の無かった能登子。そうなると
公平の言う事を素直に聞き入れたし、金も用立てた。最初の頃は金をちゃんと返して来たから、能登子は公平をすっかり信用して行ったので有る。
  公平の公の顔は能登子にも少し前まで分からなかった。
スクープを度々記事にする敏腕の記者で有る事と家族持ちで有る事位は分かっていたのだが
其のスクープを得る為に狼の様に鋭く其の為にはどんな汚い手でも使う。時には被害者の家族にも奥まで貪欲に切り込む。其の為に今迄のスクープの陰にとうとう被害者側に自殺者まで出していた。そんな執拗なで行きすぎた取材をしていた公平だったから、その事は記者仲間にも当然乍ら良く知れ渡っており、再三上部からも注意を受けていた程で有ったのだ。其の上、金にだらしない事などを知ったのはつい2ヶ月前位だったのだ。
  能登子に近づいたのも彼女が貯めていた金目的で有ったのかも知れなかった。最初は返して来ていた。其れが持ち出したまま返さなくなって
其の上に要求する様になってしまっていたのである。
実に自分の身を削って作った三千万円程の貯金も定期を解約してしまった。一度緩めてしまうと其れが底を見せるのに時間は要さ無く、三千万の預金はもう45万円を残す迄に減っていて、その現実につくづく覚めた能登子の公平への気持ちが昨日遂に吹き出て、更に金を要求する公平と大喧嘩になってしまったのだ。公平は其の能登子に乱暴をはたらいた。
決して顔には手を出さない。表に出ない所を殴り、蹴ったので有る。そんな周到で狡い男であったのだった。能登子からはもう金は絞れ取れないと言う思いが有って腹癒せからの事だったのだろう。最初から能登子に愛情が有っての事では無かった。この時能登子は殴られながらそう思った。「この馬鹿女、今まで付き合ってあげたんだ!もう来るか!」と凄い声で捨台詞を吐き、公平は能登子のマンションから飛び出して行った。殴られた身体の痛みと、利用されていた悔しさと何もかも無くなったと思う強い喪失感だけが荒らされたリビングの隅で蹲る能登子を襲っていた。今の世界でまた稼ぐのにはもう女としても自信が無くなってしまっていたのである。周りを見ても親身に話せる人間は見当たら無かった。店のメンバーは事ある度に互いの足を引っ張る事しか考えていないし、
育ててくれた祖父母も既に亡くなって居て、このマンションにも夜昼真逆の生活の為に友達も出来なかったから失意の能登子を抱きしめて励ましてくれる人間は皆無で有ったのだ。この夜、能登子は遺書を書いた。このマンションの権利書とやっと護った45万円の預金通帳を目の前にして何で命を絶つのか其の理由を書き連ねて最後に寂しいと一言書いた。
便箋に涙が落ちて滲んでいく。この遺書を書き終わって其れを眺めている内に能登子は命を絶つ本当の決心が付いたのである。今山道を彷徨い其の終の場所を得て命を絶とうとしている。もう其の気持ちは揺らがない。
  準備は整っている。後は足を樹にかけ首をロープにかけて足を離せばよいだけだ。
丁度良い切り株が足の置き場となるから樹に少し登るのは簡単に出来た。ロープに首をかけた。足を外そう!  そう思った時其の様子を先ほどからじっと見ていた黒い瞳は風の様に駆け抜けた。そして其れは能登子の右腹に強く飛びついた。瞬間、昨日の打撲の所が鈍く痛く感じたが、後ろに倒れた能登子のその頭に時を移さず何かが強く当たり、唸り声をあげている能登子の其の意識は薄れていった。                        
            どの位の時間が経ったのか、能登子は沢山の手に導かれて暗いトンネルを明るい光の差してくる方向にグルグル回って昇っている。
あの光の外が天国なので在ろうか。
回る速度が増して往く。そして能登子の其の頬を暖かく、生っぽい物が絶えず触れて居るのに気が付いていた。能登子は光の元へ急ぎたい。しかし其の感触も気になって回りながら自分の頬に手を当てた。其の手に其の感触が移った。其の時トンネルも沢山の手もサッと消え去った。能登子の幾らか開いた瞳に黒い瞳がぼんやりと見えて来たのである。其の時だった。「あ、母さん、気が付いたみたいだ!」と若い男性の声が耳に飛び込んで来た。とても寒い。「ロン、もう大丈夫だよ。」其の声で黒い瞳は其の声の主に向いた様だ。・犬?犬が頬っぺたを?・おぼろげにそう理解した。松の木から少し移動はしていたが、あの林の草の上に寝かされて其の男性のだろうジャンバーが能登子にかけて有った。
其の男性が能登子を覗いた。そして丸顔の中年の女性の顔も覗いた。もうはっきりと其の二人の顔が見えている。
能登子は死に切れなった事を其の時認識したのである。「す、すみません・」身体中が痛い。頭も痛い。力なくそう言葉にすると、寒さを感じてる身体とは裏腹に暖かい涙が思わず溢れて流れ落ちた。「車に移動したいのだけど、どうすれば大丈夫?」と其の男性の母親と思われる女性が聞いた。「うん母さん、頭を怪我してるからタオルで押さえておいてよ。」「分かった。」そんなやり取りをしている。女性がタオルで能登子の頭を支えると、頭に傷口の痛みが幾らか感じた。能登子は抱き上げられて白いバンの後部座席に移され寝かされたのである。黒い瞳はやはり白い毛を持つ大きな柴犬の様だった。
決まり事の様に能登子の側に乗り移ると車の床に座って能登子を見ている。柴犬よりも大きい。「山道だからね、少し揺れるけど我慢してね。」と男が言う。
「あなたの持ち物、全て持って来ましたから、何も心配しないで、任せてね。」と女が言った。ドアーの閉まる音が頭に響いて車は幹線道路に向かって発信した。10分位走ったろうか。能登子が運ばれたのは幹線道路を東京の方角に走ったあの松の木の現場から少し離れた内科医院で有った。
もう、能登子はこの人々に任せるしか無い。
車が停まると医院の中から熊の様な体格の男が出て来て、「及川さんどうしたの?」と女に向かって言った。
及川京子。53歳。能登子の選んだ林の側で民宿を営んでいる。
       浩二19歳  京子の1人息子である。
京子の夫は拓也と言ったが5年前肺癌を患い
他界している
医院から出て来たのは
堂島達夫  52歳    堂島内科医院の院長である。
と言っても医師は彼一人で看護士上がりの達夫の妻の和子と二人でこの医院を開業している。
「いえ、うちのお客様が林の中で転んで、頭を打ったんです。先生、お願いします。」と京子が堂島医師に頼んだ。「そ、それは大変だ〜。どれどれ〜。」とバンの後部座席に寝かされている能登子を覗いた。「ロン、また君が見つけたんだねぇ〜。」と言いながら犬の頭を撫でている。「浩二君手伝って!中に運ぶから。」
能登子はされるままにするしか無い。
  田舎の医院にしては医療機器が揃っていた。
直ぐに頭部のレントゲン検査がされて、脳波も取った。幸いに脳は何でも無かった。其れよりも堂島医師は能登子の身体の打撲に驚いた。だが顔には出さない。能登子も隠したくても隠せなく仕方なく大人しくするしか術は無かった。堂島は知らん顔で能登子に言った。
「良かったね。頭は大丈夫だよ。あ、君の名前は?」「あ、東京からいらした永井能登子さんです。」と言って京子は能登子の保険証を堂島医師に出して見せた。幾分か京子の保険証を持つ手が震えていたのだがその場にいた誰も気づく事は無い。「あ、其れね、うちの奥さんに渡しておいて。」と言うと、其の後ろにいた和子がニコニコしながら保険証を受け取ったのである
いつの間にか全部探してくれていると能登子は京子の顔を済まなそうに見つめた。
京子はただ其れにうなづいている。
其の後頭の傷口を3針縫合して治療は終わった。
「今日は安静にしてね。大丈夫だけど一応ね。山道を歩く時は足元気を付けんと、都会の人は慣れて無いからねぇ〜。其れから打撲の方は治るのに暫く時間が必要だね。ま、東京に帰ったら気長にね。」と能登子の顔を見ながらそう言う。「有りがとう先生。お客さん、連れて帰っても良いですか?」京子には山梨訛りが無く綺麗な標準語で話している。堂島もそうだった。「うん、入院の必要は無いでしょう。いつまで及川さんの所にに泊まるのかな。?」
「あ、明日まで予約頂いてます。」と京子が言った。「其れなら、明日帰るまで安静にしててね。」何もかも京子が気配りして能登子は幸い余り口を開かないで診療を受ける事が出来たので有った。心底及川親子に頭が下がる思いがしていた。今迄人の思いやりに余り遭遇しては居なかったから、能登子の今の辛い境遇の片隅が少し温まり溶けていく様な気持ちがしていた。
身体中が痛かったが和子の手で頭に包帯が巻かれ治療は全て終わった。能登子は堂島に頭を下げて、浩二に肩を借りて医院を出たのである。
ロンは大人しく車で寝ていた。能登子はこのロンに命を貰ったので有る。眼を覚ましたロンは
本当に黒い瞳がクリクリしてて肌色の大きな鼻の頭が可愛らしい。京子は少し遅れて車に戻って来た。「さ、帰りましょう。永井さん。今日はうちに泊まって下さいね。気兼ね無くね。」「そりゃそうだよ、他に客居ないんじゃん。」浩二がカラカラ笑っている。能登子は緊張した身体が解れて行くのをこの時感じていた。
 能登子が死に場所に選んで来たのは山梨県のあの上九一色村であった。富士山の山梨県側の此処では冬場でも雪が降る事は余り無く、ただ富士山を降りてくる冷たい風は辺りを途轍もなく冷やす。逆の静岡県の富士吉田側には雪が多い。日本一の山の裾野のこの辺り一面が能登子を誘った様な山道がある林また林の所である。あのオウム事件で一躍日本中に知れ渡った。其れは地元の人にしてみれば何と不名誉の事か。能登子が首を吊ろうとした所から直ぐ側に其の民宿、「民宿・及川」が有った。広い庭を持つ旅館かとも間違える其の佇まい。落ち着く日本風の建物である。
浩二が客が無いと言っていた通り、8部屋有る客間は全て空いており、能登子は二人の居住している所の直ぐ側の部屋に通されて直ぐに寝具が整った。「お腹空いたでしょ?直ぐに用意しますね。こんな所だから田舎の料理だけどね。」と京子が部屋を出ようとした。「あ、あの〜、」其の能登子の声に振り向いた。「事情を、こんな事をした事情を・」「其れは、聞かなくても何となく、ね?でも食事済んだら、もし良かったら話して。」そう言い残して部屋を出て行った。能登子は布団の脇にペタッと座り、感極まって泣いた。其の布団に突っ伏して泣いた。心からの悔いる思いで泣いた。
まだ、自分をかまってくれる人がいた事が嬉しくて泣いた。其の声を部屋の外で京子は聞いていたのだ。薄っすらと涙を浮かべて。その胸の奥で叫んでいた。・能登子ちゃん、何が有ったの!この26年の間に、一体何が!・京子は其の思いに胸が張りさける様だった。さっき、能登子の身元を調べるために京子のバッグから運転免許証を見つけて其れに驚き見てからの其の思いであったのだ。
其の記載された本籍は能登子の祖父母の住まいと同じ所番地で有ったから、あの自分が置いて来た正に能登子で有ると分かってしまったのだ。
今では免許証に本籍の記載は隠されているのだが。まだこの当時は記載されていたのである。
驚いたが嘘の様な事が今おきていた。
思い起こして悔やまれて仕方ない。浩二が摘んで来た山菜を天ぷらに揚げながら京子は自分を責めた。
そして悩んだ。其の事を言うべきか、黙って居るべきか。本当に有り得ない偶然だった。そして其の事は京子に非が有る事では全く無かったから余計に悩んだのである。
能登子は京子の前の夫である登喜夫とは血の繋がらない前妻の連れ子で有った。あの頃はまだ能登子は2歳を過ぎたばかり、前妻と別れる時に在ろう事か血の繋がって無い登喜夫の元に能登子を置いたまま出て行ってしまった母親。能登子はまだ1歳を過ぎたばかりでヨチヨチ歩き始めた頃の事だ。別に男がいた様だ。京子が其の登喜夫と結婚した時に其の事実が分かったのだが、能登子の余りの可愛さに2人の養子として登録し育てていたのである。能登子も京子をママ、ママと呼んで懐いていた。だが登喜夫との生活は上手く行かず、其の離婚のさい、登喜夫は本当の母親の両親に能登子を託した。能登子は4歳になっていた。京子の心は揺れた。自分が引き取ろうか、どうしようか、其れ程に能登子が可愛いかった。しかし幼い子供を連れてこれからどの位の事を能登子ににしてあげられるだろうか。
悩みに悩んで登喜夫の取った道に能登子の将来を預けたのである。血の繋がりの有る祖父母に委ねるのが理で有ったのだ。其れが26年前の事であった。今、其の能登子が何を悩んだのか死を決して、有ろう事か自分の側に其の場所を選び、偶然に出会ってしまった。
其の京子の思いは複雑で千々に乱れて居たのである。揚げ終わった山菜を竹で編んだ器に盛り、大根の味噌汁や鮎を焼いて食事の用意が済んだ。自分達も朝食はまだで有る。能登子を食堂に呼んで一緒に食べようと、浩二に能登子に声をかけるように頼んだ。浩二も姉を呼びに行く様に嬉しそうに飛んでいく。「永井さん、起きれる?食事になるから来て下さいって!」と部屋の外から声をかけると能登子はドアーを開けた。「有りがとう、少し待ってね、直ぐ行きます。」と返事をした。「あ、幹線道路に駐車してあった車、鍵がバッグに有ったからうちの駐車場に移動しておいたよ。あの水色の車でしょ?」この部屋の窓からその駐車場が見えた。確かに東京から失意の能登子が夜中に走って来た車である。其れを見て何もかも世話になっていると、能登子は感謝した。そしてふと、何故警察に届け無いのだろうと不思議な思いが過った。其の車は鍵の所在を京子に浩二が伝えると、黙って探して車が有ったら此処に移動する様に言われたものである。浩二は人に親切なそんな京子が誇りで有り、言葉通りに受け取って車を運んで来たのであった。「本当にロンが居なかったら永井さん今頃死んでたところだよ、いつの間にかあいつあの松のところに行ってだんだ。利己な秋田犬でね、助けたの永井さんで2人目。可愛い奴何だ。」浩二は嬉しそうにロンの話をしたから能登子は黙って何度もうなづいた。確かにあの黒い瞳が自分を護ってくれた。・そうか、ロンは秋田犬だったのね・
「早く来てよ。」と浩二は言い残し食堂に戻って行く。其の後ろ姿が涙で滲んで見えにくい。
  昨日の夜から何も口に入れて居なかった。
だから京子の作った料理は傷心の能登子はとても美味しいかった。山菜の天ぷら、この山菜は今朝浩二があの林で積んだものだろう。味が濃くて新鮮だ。大根の味噌汁も何処か懐かしい味がして美味しい。其の様子を見て京子も嬉しかった。大根の味噌汁は能登子の好きな物。
わざわざ具を大根にしたものだ。
  「良かった。ご飯が食べれれば、もう馬鹿な事は考え無いでしょ?」と京子は聞いた。
箸を置いて能登子は応えた。「はい、2度と、もう2度とあんな馬鹿な真似は決して。」
能登子は全て話そう、この京子に話そうと何故だか思った。「話してくれるのね。あ、浩二は出て行って。」浩二は膨れた。ロンもクウンと鳴いた。「何だよ母さん、俺、もう大人の話し聞いたって理解出来るよ。」「ええ、息子さんにも聞いて貰いたいです。」と京子に言った。
京子がうなづくと浩二は椅子に後ろ向きに座った。話す能登子の顔を見てはいけない様な気がしたからである。何も後ろを向く事も無いのだか・・。
  能登子は何故だか幼い頃からの事から話した。
昨日迄の事を。全部話した。其の話は1時間もかかる程だった。京子は聞いていて涙が溢れて仕方が無い。やはり、其の話の中では自分と登喜夫が離婚の際どちらも引き取られなかった両親として語られていた。だが其の後に於いても自分が其の能登子を引き取らなかった女で有るとは名乗らなかった。少しの罪の意識が働いたのかはっきりとは分からない。言えなかった。「そうなのね。苦労のし通し。でも決してこの先悪い事ばかりでは無いわ。そう思わない?」能登子の顔を覗き込む様に京子は聞いた。「はい、せっかく貯めたお金は消えてしまったけど、見ず知らずの私にこんなに良くして貰って、だから決して一人では無いと分かりました。お金ばかりが大切では無いと。」其の能登子の言葉に「そうだよー、母さんを本当の母さんだと思って、また来れば良いよ。」突然浩二が言ったものだから、京子はドキッとした。
「用立てて貰った治療費と宿泊代、明日精算しますので奥さん、請求して下さいね。」
能登子はそう言った。そう言う事でもう死ぬ何て事決してしないと分かって貰いたかった。
「でもさー、その新聞記者この先ろくな事無いじゃねぇ〜。」そんな風に浩二が言ったから京子は「何だろう、浩二、高校生みたいに喋って。」と笑う。そして「だけどそうだよね。人を其れだけいたぶって普通に世間渡れる筈が無いわ。今は良いけどこの先ね。」と全く浩二と同じ事を話した。「はい。でももう忘れて、私新しく出直します。仕事も辞めて。」能登子はこの事を機会に水商売から身を引く決心をしていた。
若い時から能登子の生きて来た其の道を捨てるのは容易に出来る事では無いだろう。京子はそれでも今の能登子なら抜け出れるかも知れないと聞いてて思った。また抜け出て欲しかった。
能登子にはやり直しの効くまだ其の若さがある。・出来る限りの応援をしよう。・と、決心をしたのである。             
  能登子は京子の元でゆっくりと一晩身体と気持ちを休めて帰り支度をし、玄関ロビーに設置されていた寄せ書きノートに自分の電話番号を書き残し、民宿及川の電話番号を控えて翌日の昼前京子親子に見送られて、東京へと帰路の車を走らせたのである。まだ縫合した頭の傷は少し痛かったが、よく晴れた師走の其の行き過ぎて行く景色は鮮やかな冬の、冬しか無い色が眼に映って、よく晴れた空と溶け合い眩しかった。今は覆っていた死の影が能登子からストンと抜け落ちて、おとといの夜中に上九一色村に向かうその能登子の打ちひしがれた姿はもう何処にも無いのである。都会の雑踏の中に在る中野の自宅マンションの駐車場に戻ったのは夕方6時にもう直ぐなろうとしている頃であった。
          まず荒れたリビングの片付けから始めた。倒れた椅子、割れたコーヒーカップ、床の掃除、頭を傷つけ、身体中の打撲を抱えて終わると流石に疲れと眩暈が襲って来た。何故か自分の家がよそよそしく感じていた。
 能登子は電話の子機を手にしてソファに深く腰を掛けると暫くダイヤルもぜず落ち着くまで待った。5分程して漸くローズマリーのダイヤルボタンを押した。「はい、ローズマリーです。」バーテンダーの奥山だ。「ママいる?ルイです。」「ルイ?あんた何処に言ってたのよ〜、ママおかんむりよ〜。」奥山の男としては疳高く女っぽい口調が耳元で響き頭が痛い。「ごめん、ちょっと急に親戚にいろいろあって、」「あら、そうなの〜、ちょっと待ってて〜。」まだ店は準備中なのだろう。営業時間には奥山は余り話さない。だからこんな面がある事を客は知らないだろう。ホステスには無害で有るから人気では有るのだが。そんな事を思いながらママが電話に出るのを待った。「待たせたわねー。」とママの声、明らかに気分を害してるようだ。「お早うございます。ママ。」「あんた今日は出れるんでしょ?連絡位欲しいわね。高村さん夕べ暴れて大変だったんだから。」やはりか、と能登子は思った。
「すみませんでした。ママ、でも今夜も店には出れないの。」途端に「ルイ、何言ってんよ!辞めるんじぁないんだろうね!あんた!」
ママの声が抗っている。「そうなんです。店辞めさせて下さい。」「このクリスマス前の忙しいのにどうしてよ!」このママは雇われママのマサミと言う。店の女の子には気が荒く陰口を言うホステスが大半で有った。
「私の叔母が具合悪くて、叔母の民宿を手伝う事になったの。」「あんたにおばさんなんていたの!天涯孤独だと思ってたわよ。駄目よ、オーナーだって許さないわよ。」思っていた通りである。能登子はローズマリーに長く居て一番の稼ぎ手で有ったから簡単に手放すはずが無い。
でも今の能登子には店に借金がある訳でも無く、辞める辞めないは能登子の自由で有る筈で有ったから能登子も強気に出た。「明日にでも叔母の所に移らなければいけないんです。もう出れません。オーナーにそう伝えて下さい。」と言い切った。
「叔母さんって、何処に行くのよ!」もう怒鳴っている。「山梨です。」「山梨!ルイ、引き抜きじゃないんでしょうねぇ!」能登子は其処で電話を切った。この世界の人間は人の言う事をまともには取らない。ましてママやオーナーともなれば尚更で有った。NO1ホステスの引き抜きは店の経営の死活問題と成り得る。能登子は意思は伝えた。もう行かなくでも大丈夫だろう。そう割り切った。夕べ高村が暴れたのは気にかかる事だったが、疲れていたからもう気にしない事にした。冷蔵庫の中に有る物で急いで夕食を食べて念入りに戸締りをして早く休む事にした。高村がまた来る可能性が有るからで有る。もう、公平には断固として逢わないと心に誓ったのであった。
  冬の朝は遅い。6時を回ってもカーテンの隙間からは薄暗い空しか見えては居ない。
打撲の跡が痛くて余り良くは寝ては居なかったが、能登子は新しい人生を始める為1日も無駄にはしたくなかった。今日はこのマンションを購入した時の不動産屋に連絡を取ってこの部屋を売却する相談がしたい。出来ればその会社へ出向きたいと考えたのである。
何にしても生きると決めた以上、能登子は強くならなければいけない。其の強くなろうと決めたせいで有るのか何時にも無い食欲となって思わず鳴り続けるお腹を手で抑えた。冷蔵庫の中にはもう食材は乏しかった。顔を洗って下のコンビニへ行こうと急いだ。
外へ出ようとしてドアーを開けるも重くて開かない。変だな、と思いつつ力任せに押した。顔が出る位開いたのでそこから覗いてみると、
其処には何と、明らかに泥酔している公平が寄りかかり足を投げ出して座り混んでいるではないか。驚きは半端なものでは無かったが、やっとドアーの少し空いた隙間から能登子は急いで外に出て鍵をかけた。公平を部屋に入れる気はさらさら無い。気づかずに鼻を鳴らして寝ている公平を跨ぐと急いでマンションを下りた。まだ管理人は来ては居ない。仕方なくコンビニに飛び込んだ。バイトでは無く、コンビニのオーナーが店番をしている。「す、すみません。このマンションの三階の永井ですが、うちの前に酔っ払いが寝てて110番して貰えますか!?」とオーナーに言うと、何号室なの?と笑って聞いて来た。「305です。」笑いながらも電話を取ると110番通報をしてくれたので有る。
「困ったもんだよねぇーこの時期、この辺り酔っ払いが増えて、家間違えたんかな?」と笑っている。能登子はコンビニに暫くいて様子を見る事にした。暫くするとパトカーがマンションに停まり、巡査が2人出て来て入って行った。
能登子は雑誌の並んでいる所から其れを見ていた。暫くするとだらし無く巡査に抱えられて
公平がパトカーに乗せられていく。乱れた前髪の間からその公平が能登子を赤い目をして睨んだように感じて咄嗟に能登子は屈んだ。其れは気のせいだったかも知れない。その時初老の巡査がコンビニに入って来た。「通報されたのはどなたですか?」とオーナーに聞いている。
能登子は「私の家の前です。私が頼みました。」とその巡査に正直に言った。
知り合いかと聞かれて、能登子は首を横に振って否定した。すると、本人にも確認したのだけど、泥酔してるからはっきりとしないらしく、知らない家だと言っているんだ。と話した。
泥酔していても浮気相手の家であるとは公平にも言えなかったので有ろう。そのまま公平は警察署へ連れて行かれたのである。
  ひとまず店のオーナーにお礼を言うと能登子は何も買わずに急いで家へ帰って来た。
そして部屋の隅にへたへたと座り混んでしまったのである。もう公平がまた直ぐ来るだろうこの家に一時も居たくなくなって腰が落ち着かなくなってしまっていた。
手は躊躇いもせずに電話の子機にのびて、あの上九一色村の民宿及川の番号を押していたので有る。能登子には本当に今京子しか無かったのだ。その京子は一瞬躊躇ったが、直ぐに荷物を纏めていらっしゃいと能登子に言ったのである。つい昨日別れたばかりなのに懐かしい気持ちでいっぱいになっている。京子が何故自分を快く受け入れてくれるのか、なんてそんな事も不思議とは思わず、何も考えずに急いで荷造りをした。家具はそのままにして衣類と靴やバック、宝石類と家の権利書と貯金通帳などを車に積み、ガスの元栓を閉め電気のブレーカーを切ると、夕べ此処に帰って来たその道をまた京子の待つ上九一色村に車を走らせたので有る。もう東京には戻らないだろう。其れはそんな一大決心の、考えても居なかったこれまでの能登子自身からの逃避行となる旅なので有った。  
 東京を出る頃になって曇っていた空が冷たい雪混じりの雨となっていった。ワイパーを作動させる。フロントガラスに重たい雨が張り付くのを其れは懸命に払っている。今の能登子の状況にそれは似ていた。師走の空気は冷たい。東京よりも寒さは増している。朝から何も口にしてない能登子は余計に寒い気がして、真っ直ぐに山梨へと思ってはいたのだが、思い直して談合坂サービスエリアへ車を停めた。普通の日と言うのに案外とサービスエリアは込み合っている。少し並びトイレを済ませ、ホットドッグとコーヒーを購入してヒーターの残りでまだ少し暖かい車に戻ると其れを頬張った。一口、二口、喉をパンが通って行く。コーヒーを飲みながらしみじみと思う。
この短い間にこれまでの生活が180度変わるような出来事が有り、正に今新しい自分が始まろうとしている。そんな事が頭で渦巻いて、ふと不思議な思いに浸っていった。
・・何故、私はあの上九一色村の永井に向かうのだろう。確かに頼るところは無いけれど、自然に思いが京子へ向いている。どこか懐かしい。他に方法は有った筈、少しの間ホテル住まいしても良かったのに当然のように京子を頼っている。何故なのだろう。・ ・  能登子はそう思っていながら、だがだからと言ってまた来た道を戻る気はサラサラ無かった。素直に京子の元へ行こう。そう改めて決めるとまた車のエンジンをかけたので有る。山梨へ近づいて行くと段々と空が明るさを増していって、時雨はいつの間にか止んだ。小さな車の中は荷物がいっぱい。車を含めた今の能登子の全財産である。派手な世界で生きて来たから持っている服も、アクセサリーも、バックも靴も其の世界で生きていく道具であった。今着ているセーターもパンツもヒールの高いピンクの靴も見るからに素人の女が身につける物では無い。初めて其れに小さな恥ずかしみを覚えていた。此れからは少し変えていかなければならないのだろう。転出届けや仕事の事など、考える事は山積みだけれど今はひたすら京子の元へいく。其処からどこか道が開いて行くような気持ちがしているのだ。視界は周りが広々とした山や林になっていく。もう直ぐあの,民宿永井,が見えてくる。
一抹の希望を胸に能登子はハンドルを握る。
  幹線道路から右にハンドルを切った。昨日東京へと出発した及川の駐車場への5メートル程の幅の道である。其の車の音が聞こえたのか玄関に京子とロンが出て来た。
 客が泊まるらしい。先に車が2台入れてある。
田舎の敷地は広い。能登子の車も其の左隣に停められる。わざと前向きに駐車すると、能登子は飛び出す様に車を出て玄関へと駆けて行くのだった。何が自分をそうさせるのか、能登子自身解らない。だが間違いなくその視線の先に微笑んでいる京子が立っている。
真っしぐらに其処へ飛んで行った。
其の能登子に激しく尾を振りながらロンがまとわりついて、其れは黒い瞳が可愛く輝き其の全身で能登子を歓迎しているかの様である。
京子はもう目の前にいた。
能登子は子どもの様に泣いて京子の胸の中に飛び込んで行った。    
   一頻り京子の胸の中で泣いてると何故か懐かしい香りが京子から臭ってるのに気がついた。何処で嗅いだ香りだろう。一緒に店に出ていた女の子のコロンだろうか。
京子も能登子の肩をさすりながら、幼い日に「ママ〜」と言って泣いて飛び込んで来た能登子を思い出していた。一瞬空を仰いで出て来そうになる涙を堪えた。その時能登子が
「すみません、私迷惑も考えないで出て来ちゃいました。」と京子に謝った。京子は能登子の顔を覗き込む様にしながら「迷惑なものですか、何も考えなくて良いのよ。」と笑顔で返すと「浩二ー、能登子さんの荷物あの部屋に運んで頂戴!」と玄関に向かって大声で浩二を呼んだ。「忙しいのではないですか?私1人で大丈夫ですから。」「何を言ってんだか〜。僕が運べばチョチョイノチョイ。」と玄関を飛び出して来た浩二が戯けて言った。「もう夕飯の支度に入るから、ね、早く入って、後でゆっくり話しを聞きたいわ。」と京子は能登子を急かした。
まるで娘を迎えたように其れは自然な態度である。能登子の緊張はスゥーっと軽くなっていた。家族の温もりを余り味わって来なかった能登子にとって其れは始めてと感じる暖かい経験である。
つい何日か前に失意の能登子は命を絶とうと此処を訪れ、其れをこの親子に助けて貰った。いや正式にはもうひとりいる。秋田犬のロンを忘れてはならない。ロンが居なかったら能登子は無残な骸となっていたのに違いなかった。永井の玄関を入った時ふっと家庭の匂いが能登子の鼻に飛び込んで来た。
   京子の所に能登子が来たのはもうクリスマスが目前の23日であった。クリスマスが過ぎると泊まり客の足が途絶える。
元々この辺りに泊まる客は点在する会社経営のゴルフ場や村が経営するゴルフ施設に来る人達が多いのだが華やいだ観光地とは違ってそう客数が有る訳ではなかった。後は年が明けてのゴルフ大会の客の予約は入ってるのだが、それまで民宿の客は無いだろう。民宿としての及川の1年のうちで一番落ち着く時期であった。
この日最後の泊まり客に能登子は京子を手伝って接待をした。さすがに客あしらいは慣れて居るから京子も大いに助かったのである。
派手な柄のパンツもエプロンで少し落ち着いて、化粧も洗い流して口紅をひいただけにすると、元々の瞳の美しさや眉の形が良いのが引き立って感じが良い。だからこの日泊まった5人の客の能登子へのウケは悪く無かった。素顔で受け入れて貰えている嬉しさを初めて味わった能登子である。其の後片づけと明日の朝食の仕込みを終えるともう12時を回っていた。此れから家族が風呂に入りホッとする時間である。浩二が先に風呂に消えた。京子はエプロンを外して壁に掛けるとココアを淹れてた。
「今日は助かったわ、能登子さんが居てくれて。」と言いながらカップを勧める。
何時もならこの時間には能登子は男と酒を呑んでいる事が多かった。だからココアである事が嬉しい。「頂きます。」と手を伸ばした。「能登子ちゃん。私貴女に話が有るの。」京子は意を決して話し出した。怖かった。あの話を能登子にするのは京子にすれば本当に怖かった。でも話しておかなければいけない。偶然に出会ってしまった以上、能登子が我が家に来た以上もう黙っては居られない事だった。能登子は顔を上げて京子を見つめた。
・はい・心配そうに答えた。其れでも此れから驚くような事を京子から聞くとは思わずにいる。だが僅かながら自分をちゃん付けで呼んだ事に小さな違和感を覚えてはいた。「飲みながら聞いてね。」と前置きをして京子は話し出した。
能登子ちゃんがまだやっと4歳になった頃の秋にね。私貴女を貴女のお母さんの実家に置いて家を出た女なの。」其の言葉は能登子には直ぐに理解は出来なかった。何を京子さんは言ってるの!私が4歳?な、何?頭がグルグル回った。・あ、あの其れって何の事?・声になら無い。京子にはやっと聞こえてはいたみたいである。
京子の瞳から涙が落ちる。「能登子ちゃんが2歳の頃から其の時まで私は貴女のママだったの。」其の言葉は能登子に衝撃を与えるに十分であった。・あ、あの匂いはママの匂い!・
瞬間に思い出した。「ま、まさかでしょ?!」
能登子は叫んだ。京子は静かに首を横に振った。「私も貴女の運転免許証見た時そう思ったの。」「でも此れは本当の事なのよ。能登子ちゃんが自殺するのに選んだ所が此処で、息子とロンが助けた何て、もう神様が仕組んだとしか思えなかった。」そう言いながら京子は自分の両腕を抱いた。眼を伏せながら話を続ける。
「貴女がお父さんと思っている人は貴女の養父なの。」初めて聞く事である。そう言えばさっき本当のお母さんの実家にと京子は言っていたなと思い出した。余りの事に言葉を失う。
じっと話を聞く事に能登子はした。
能登子の対面に腰を掛けると京子は話を続けた。すっかり覚悟している落ち着いた顔になっている。能登子はじっと其れを見つめた。
そして事の真実をすっかりと其の話から飲み込む事が出来た。今まで天涯孤独だと思っていた自分に、娘を捨てた本当の両親がいる。そして短い間だけど本当に可愛がってくれた人が目の前に座っている。此れまでの自分の生き方と重ね合わせて、其れは衝撃を与え、後から後から涙が流れて止まら無い。自分を捨てたと思っていたママは本当のお母さんでは無く其れも仕方なく手放した。其の事が理解出来た。ただ今自分がどうして良いのか分からない。ココアのカップを持ちながらテーブルに伏して泣きだしてしまった。「やはり私が引き取って来るべきだったの。」と京子も泣きながら言う。其れを聞いた能登子は顔を上げて首を振った。
「無理よ、其れは無理。ママが一人で生きてくだけで精一杯だもの。」能登子は幼い頃の自分と今こうしている自分が京子に助けて貰った現実がとても嬉しかった。俄かに信じられ無い事、そう起こる事ではない事が事実こうして起こっている。其の事が驚きの中で嬉しかった。
  だから精一杯そう気持ちに答えたのである。
「だから能登子ちゃん、今こそ私を本当のお母さんと思って甘えて頂戴。もう何処へも行かないで。」其の言葉に能登子は京子の手を取って泣いた。「ママ、ママなのね。私の。」京子は黙って泣きながら何度もうなづいた。
「あ、そう言う事なら親子でお風呂入れば〜」
いつの間にか浩二が風呂からあがって声をかけた。振り向くと笑って立っている。きっとこの事は既に京子から聞いて居たのに違い無い。ロンはキッチンの隅で寝ていたが浩二の声で頭を上げて、其の3人を眺めている。
   当座は助けて貰ったあの日に泊まった部屋が
能登子の部屋になった。少し気持ちが落ち着いて来ると、考えなければなら無い此れからの事が山積みになっている。年が明けたら動かなくてはなら無い。中野区役所に電話をかけて
転出届けのさいに其の付票発行停止処置を申告出来る事が分かった。だが転出届はやはり中野区役所まで出向かねばなら無いのだろう。
転入届はその後上九一色の役所に届けを出すのだが其の時に住民票を本人以外には見せたり発行を停止する事が出来るのも判明した。
一応其れで公平の前から能登子の形跡は無くなる。だが公平は新聞記者である。いつかは嗅ぎつけるかも知れない。一抹の不安は有るが其れは今は考えない事にした。
そして能登子の胸に去来する事はもう一つ有った。其れは京子の側には居たい。しかし何時までも甘えてはいけないと言う思いで有った。
自分が本当の母親だと思って来て、そして恨みの気持ちも有った京子は本当の母親では無かった。だが本当の母親よりも能登子を可愛がり引き取らなかった事を悔いている。能登子にはそんな京子が母親であるのは変わらない。だが現実には血の繋がっては無い人である。其の京子に依存して生きるのは能登子の意に反した事なので有った。
いずれ此処で職を得て独立しなければならない。またそうしなければ京子に申し訳無いと
考えた。女29歳、大人として自分を律しなければならない。そう考えたのである。
中野のマンションは不動産屋と相談して家具付きで売る事にした。売れたなら残りのローンを払っても幾らかは能登子の手に残るだろう。
公平に消えた金の事は綺麗サッパリと諦める事にしたので有る。此処から新しい能登子が始まる事になる。そう決めるとこの年の瀬を越え新年を京子の元で迎える事が嬉しくなってくるので有った。
其の激動と感動の年も明けて全ての手続きが済むとやっと能登子に安息の日が訪れていて及川の仕事を手伝居ながらあっと言う間に1月も後何日か残すのみとなっていた。仕事も見つかった。2月の初めから出勤する。其れは水商売しか知らない能登子に取って考えてもみなかった仕事である。新聞の求人欄に載っていた。
上九一色村役場での電話交換手である。
委託業者が掲載したもので有った。
資格は要らなく、歳の規準もクリアしていた。
難なく面接で決まったのである。役場で有るから週5日勤務であったし、土日、祝日は休みとなる。永井を出ても手伝いに通う事も出来ると能登子は当初考えた。だが永井を出る事は京子は頑として望まなかった。此処から通ってと能登子に懇願をしたのである。能登子は幸せであった。
京子の娘のようで有るから、其れが一番嬉しかった。もう何が有ってもこの家族と居れば怖く無いと心から思った。
夕方から少しの間雪が降ったので枯れた林がうっすらと雪化粧して街灯の下、墨絵の様に美しい。
空を見上げると下弦の白い月が冴え冴えと輝いている。其れを見つめる能登子の横に座る
ロンの黒い瞳にも其の白い月がウルウルと輝いていた。
   
           完了

後話し
公平はその後やはり能登子の前に現れたがロンに噛みつかれて東京に逃げ帰り、その後まも無く公平の自宅近くで暴漢に襲われ其の命を落とした。其の夜も白い月が瞬き、黒い瞳がじっと其れを見つめていたのかどうかは分からない事だが、其れは公平によって不幸に堕ちた被害者の家族による犯行とも、また政治的な陰の力が其処に働いたとも報道で騒がれたのである。だが其の全ては未だ不明のままで有る。